ちくま新書

「主権者たる国民」の、主権って何? 主権者って誰?

「最終的に決めるのは主権者たる国民の皆様です!」――破壊者か創造者か、法vs政治、選挙vsアルゴリズム、民主主義と衆愚、行動する市民……恐怖と期待に満ちた“取扱い注意”の概念を掘り下げる禁断の書、『主権者を疑う』の試し読みです。
【本書の帯より】

政治と法の関係について、私は法学者として日ごろ次のように考えてきた。政治と法は仲が良くない、分かり合えない、水と油である。でも、それでいいと思っている。そうでなくちゃとすら考えている。むしろ問題はその付き合い方にある。両者それぞれ固有の役割を演じながら、埋めがたい溝を意識しつつも、決定的断絶をきたすわけでもなく、かと言って、なあなあに堕するわけでもなく、お互いを「好敵手」として認め合う……。政治と法はそういうダイナミックな関係であってほしい。ナンシー・ケリガンとトーニャ・ハーディングではなく、半沢直樹と大和田暁のような関係を、とでも言えばいいか。

しかし、ここ数年、政治が法を吞み込まんとしている。悪趣味を通り越した暴言によってポピュリズムをあおったり、効率性や迅速性さらには英雄的行動の演出のために独裁的権限集中が行われたり、独りよがりの思いつきを社会実験してみたりと、政治の暴走が止まらない状況を私たちは日々目の当たりにしている。このような政治の振る舞いに対して細かいことをゴチャゴチャ言ってくる法は目障りな障害物以外の何物でもない。そして、そのような〝障害物〞を吹きとばすに際してしばしば口にされ、法をねじふせるための旗印に掲げられてきたのが、「主権者国民」である。

本書では、政治と法のあるべき関係を意識しつつ、主として、「主権者国民」の問題を扱う。私がなぜこの点に焦点を当てたいと思ったのか。それは次のような背景による。

*  *  *

日本国憲法が制定されて75年ほどが経った。改正されたことがない憲法としてはおそらく世界最古のものであろう。ところが、この憲法を変えようという議論もまた、日本国憲法が誕生した直後から繰り広げられてきたのであり、戦後政治に一貫して存在する潮流になっている。そのうねりには強弱があるが、時に間欠泉のように激しく噴出し、そのたびごとに日本国憲法は論議の表舞台に立たされ、もみくちゃにされ、かつ、生き延びてきたのである。もっとも、ただ生き延びればいいというわけではない。「生ける屍」、「残骸」、「まぼろし」にならないように、憲法を普段からきちんとメンテナンスして使いこなす努力をする必要がある。

改憲のうねりにさらされながらも、統治に対する規範的力をしっかりと発揮できるよう、憲法は常に自らを鍛え直さなければならない。憲法は、改憲という波にたゆたう木の葉、あるいは政治権力という風になびく柳の枝のようなものとして生き延びればいいわけではなく、やはり、波風ときっちり対峙してそれを押し返し、かつ生き延びなければ意味がないのである。日本国憲法の正統性の一端は、そのような戦後政治の波と風を生き延びてきたというダイナミズムにこそ求められるべきであろう。

2012年の自民党憲法改正草案の公表、第2次安倍晋三内閣の誕生によって、ここ10年ほど、憲法改正が再び脚光を浴びるようになった。具体的な政治日程が設定されたりもした(故安倍晋三首相〔当時〕は2020年を新しい憲法が施行される年にしたいと語っていた)。しかし、正直なところ、どうみても盛り上がりに欠けていると言わざるをえない。〝新しい時代を拓く〞、〝この国のかたちを考える〞、と言われるわりには、いい意味でのワクワク感もドキドキ感もない。

改憲という重大プロジェクトの前提となるような〝今そこにある危機〞や〝忍び寄る危機〞がどうも見当たらない。少なくともそれらが国民に共有されるようなかたちで議論が展開されていない。見える人には見えて、見えない人や見たくない人には見えない。そういう状況を放置したまま、改憲を議論しても、そもそも「何のための改憲なのか」が見えないので、盛り上がりようがないのではないか。

あるいは具体的な危機への対処というよりも、戦後政治の閉塞状況を打破するための最後の手段として改憲に訴えるということなのかもしれない。閉塞状況の打破は重要である。そのために改憲はどういう効き目があるのか、具体的にどの制度やしがらみが破壊されるのか、本当に改憲でなければ打破できないのか、他の手段を政治は尽くしたのか、打破の前に問うべきことは多い。そういったことを置き去りにして、ただ何となく〝空気を入れ替えてみました〞では、何も変わらないだろう。

実際、安倍晋三氏は、9条に「自衛隊」の3文字を書き込むという改憲提案をしたが、その際、同氏は、自衛隊の3文字を憲法典に明記しても「何も変わらない」と繰り返し発言してきた。自衛隊の任務・権限も変わらないし、たとえこの改憲案が国民投票で否決されたとしても、「何も変わらない」と言い切ったのである。しかし、憲法改正までして何も変わらないということはありえない。もしそういう国があるとしたら、その国の憲法は既に死んでいるのである。

*  *  *

以上のような私の認識は、憲法改正に極めて否定的な態度に出るものと受け止められるかもしれない。この点、あらかじめ表明しておくと、私は憲法改正そのものについて否定的なわけではない。真に必要な場合には堂々と挑戦すべきであると考える。そもそも憲法自体がその96条で改憲の可能性を認めているのだ。私が否定的なのは、意味不明な政治状況で改憲が提案され、議論されることに対してである。

改憲をめぐる議論をどのように進めるかは、言うまでもなく、改憲の質を決定する重大な問題である。政党を含む政治アクターたちには、文言の修正や改憲手続のあり方だけではなく、むしろどういう議論プラットフォームで改憲を構想するかをめぐって、ぜひ競い合ってほしいものである。

安倍晋三氏も首相として、活発な改憲論議を期待し、たびたびそれを挑発してきた。例えば、次のような呼びかけを在任中繰り返してきた。「まずは具体的な改正案が示され、国民的な議論が深められることが肝要であります」、「憲法改正について、最終的に決めるのは、主権者たる国民の皆様であります」と(以上、2019年1月4日年頭記者会見、2018年12月10日総理記者会見)。そして、極めつけは、2018年5月3日第20回公開憲法フォーラムに寄せたビデオメッセージで発せられた、次のセリフである。

「主役は国民のみなさまです。」

手垢にまみれた常套句である「国民的な議論」とは何か。「主役」にまつりあげられながらも、「最終的に決めるのは……」うんぬんと、出番がやたら〝最終的〞と強調されるのはなぜか。「国民的な議論」という実体のあいまいな議論過程を経て、「主権者たる国民」は、提示された改憲案を認めるか否かの二者択一に追い込まれ、でも「最終的に」決めたのは国民だからとその責任を転嫁されるにすぎないのではなかろうか。

しかも、9条への自衛隊明記について、「主役」である「国民」が「最終的に」拒否したとしても、従前とは「何も変わらない」と提案者は言っていた。「最終的に」「主役」は何も変えることができないらしい。

本書は、この「主権者たる国民」について考える。主権者とは、右のように、もちあげられ、ふくらまされ、おだてられつつも、中身はどこまでも空虚な政治的表象にすぎないのかもしれない。あるいは、逆に、思い切り中身を充塡されて、何もかもぶちこわす大量破壊兵器のごとく、政治状況をひっくり返す役割が期待されているのかもしれない。

結論の一部をあらかじめ述べておくと、憲法は主権者を畏れている。主権者を畏れ敬いつつも、それを不断に疑うことを私たちに求めている。

【目次より】
はしがき
  
序 章 見取り図 ― 日本国憲法に登場する「国民」たち  

第1章 主権者Part 1   ― ロゴスと意思  
1 「最終的に決めるのは、主権者たる国民の皆様であります」  
 改憲論議を振り返る―主権論の〝重さ〞と〝軽さ〞/国民投票の「権利」の剝奪?
2 主権についての伝統的理解
 主権の三つの相/最高権力の源泉としての「最高の意思力」
3 ロゴスから意思へ 
 神の至高性と三位一体論―「ロゴスとしての神」とその万能性・永遠不変性/神、理性、意思―トマス・アクィナス/普遍か個物か、理性か意思か―スコトゥスとオッカム/神の意思の絶対性と恣意性
4 至上権争い ― 神権と俗権の攻防  
 神学から政治思想へ/両剣論―神権と王権の区別/教皇至上権へ
5 中世の解体と主権論の浮揚
 教皇の没落と中世の解体/主権論と「王権の自律」―家族・教会・国家/神を演ずる王―王権神授説の専制化/中世神学の「反転応用」としての主権論/主権と法―至高性を枠づけるもの
6 本章のまとめ

第2章 主権者Part 2  ― 忘れられた巨人
1 破壊者=創造者
 〝破壊者=創造者〞としての神 ―  大魔神・ゴジラ・宇宙人
2 〝破壊者=創造者〞としての「憲法制定権力」
 憲法制定権力とは/〝破壊者=創造者〞としての制憲権
3 主権者をおさえ込む?
 超越的規範に訴える―自然法論の系譜と主権者の自己拘束/主権者の出番を少なくする―制憲権の常駐か封印か/主権の独占を許さない―意思主体か代表機関か
4 国民主権論はなぜ受け容れられているのか?  
 国民主権がはらむいくつかの問題/国民主権論とはどういう企てなのか
5 アメリカの経験から
 「人民主権」と「州主権」/チザム対ジョージア事件判決(1793年)/チザム判決個別意見に見る初期アメリカの主権論/連邦法無効宣言危機/奴隷州、自由州、人民主権/南北戦争の遺産―「失われた大義」
6 主権と主権者
 主権者の神格化/天皇機関説事件/ヤングスタウン鉄鋼所接収事件アメリカ最高裁判決(1952年)/主権が人格化するとき ―  ジャクソン補足意見の主権論/主権的人格への帰依か、最後の理性か/主権者は誰でもいい?―尾高=宮沢論争/主権抹殺論?/ノモス主権論の含意/神話の密輸入
7 本章のまとめ
 国民主権は解決にならない/では、どうするか/忘れられた巨人

第3章 民主主義
1 原風景としての「民衆支配」
 Democracy の原義にさかのぼる/堕落した統治形態の中では民主制がベスト/民主制の本質は〝衆愚〞である
2 〝衆愚〞その1 ― 愚民とエリート
 雄蜂と哲人―プラトン/愚民とエリートの分断を超えて
3 〝衆愚〞その2 ― 主権者としての「大衆」
 アレントの「モッブ」/「大衆」の登場/平均人の巨大な波―オルテガの大衆論/平均人・普通人の磁場/主権者としての大衆
4 魔術から計算へ
 情報環境の今昔/デイリー・ミー→エコー・チェンバー→集団分極化―サンスティンの#リパブリック論/集団分極化―デジタル社会の「雄蜂の群れ」・「モッブ」/〝主権者国民〞の分極化・均質化・可視化/魔術から計算へ―「一人一票」制という変換ツール/東浩紀の「一般意志2.0」/熟議と計算の対抗
5 「選挙こそがすべて」……なのか?
 すべてが政治、最後は選挙?/選挙の実相―ロンダリングの回路が生み出す時限的独裁/計算結果の専制
6 民主主義という〝利益相反〞
 「自己統治」という言葉について/代表制という〝利益相反〞/まずは、あからさまな利益相反をどうにかしよう
7 民主主義の再設計
 ここまでの流れの整理/アルゴリズム/くじ引き/国民投票/法の支配/民間法制局?

第4章 市民社会  
1 砂川判決再訪
 砂川事件とは?/9条の命運(その1)―解消されない憲法上の疑義/9条の命運(その2 )―ふたつのオプションの並置/9条の命運(その3 ) ―主権者国民の政治的批判?
2 「主権を有する国民の政治的批判」
 「社会の雑音」―田中耕太郎長官との対峙/岸盛一裁判官の場合/富川秀秋裁判官の場合/憲法の正統性危機と国民の批判的活動
3 市民運動の来歴と「動員の革命」  
 日本の市民運動が熱かったころ/最高裁の〝集団暴徒化論〞/SNSによる「動員の革命」/「動員の革命」の失敗―宇野常寛の問題提起
4 デモの祝祭性と日常性
 デモの近未来を考える―〝動員〞と〝人流〞をめぐって/非日常性の強化・洗練と日常性へのはたらきかけ/他者の存在確認と自己の存在証明のためのデモ/つかの間の自由としてのデモ―小田実とG・ルフェーヴル/身体を差し出す―J・バトラーのアセンブリ論/凶兆としてのデモ
5 〝市民社会〞の近未来
 アイデンティティ・リベラリズムの陥穽― M・リラのリベラル批判/「市民」という身分の復権/「名刺交換をしないデモ」という「無知のベール」/分人民主主義というコペルニクス的転回―鈴木健の挑戦/近未来の統治

あとがき
日本国憲法 抄録
参考文献
索引

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