ちくま学芸文庫

『民藝図鑑』と柳宗悦
柳宗悦監修『民藝図鑑 第一巻』解説より

『民藝図鑑』は柳宗悦の生前に唯一刊行された日本民藝館の公式図録です。この図録の最終巻の編集中に、柳はこの世を去りました。渾身の力を振り絞って作成したこの本を通し、柳はいったい何を示したかったのでしょうか。日本民藝館主任学芸員の白土慎太郎さんによる解説の一部をご紹介します。

 『民藝図鑑』は、日本民藝館の初めての総合的な蔵品図録として、一九六〇年一月に刊行が始まった。柳宗悦(一八八九〜一九六一)が日本民藝館を設立してからほぼ四半世紀後のことで、翌年一月に第二巻が刊行されたが、監修者の柳が同年五月に七二歳で没したこともあって第三巻は発行が遅れ、一九六三年七月に完結した。第一巻の柳による序文には、次のように記されている。

 私は折を見ては病いを押して、強いて解説その他を書くことに努めはしたが、品物の選択、挿絵の配列、その他一切のことは、幸にも僚友田中豊太郎君の理解ある援助を受け、且つ原稿の整理、浄書等を民藝館の浅川園絵さんの助力に待ち、装幀は芹澤銈介君の好意により、製版はいつもの如く西鳥羽泰治氏の技に委ね、ともかく上梓の悦びを得るに至ったのである。

文中で「病い」とあるのは、一九五六年末に大病を患い、柳が半身の自由を失ったことを指す。これを助けたのが、三巻を通じて編者に名を連ねる田中豊太郎である。大正時代から柳と交流があった田中は、柳が「眼利き」として全幅の信頼を置いた人物で、一九五七年一〇月から雑誌『民藝』が日本民藝協会の機関誌となったことを機に、柳が新潟から田中を呼び寄せて雑誌を充実させた経緯があり、その後一九七八年六月までの約二十年にわたり、長らく『民藝』の名編集長として活躍した。

 浅川園絵は若くして亡くなった柳の盟友・浅川巧の長女で、終戦後に日本民藝館に勤務し、病中の柳を支えて原稿の清書を多く行なっている。柳の著作の表紙を型染による独自の装幀で彩ってきた芹澤銈介は、本書では表紙と本文中の小間絵を担当した。序文では触れられていないが、第一巻は全て柳が執筆したものの、二巻と三巻では部分的に濱田庄司や芹澤も執筆を分担している。このように、『民藝図鑑』は周囲の助けなしには完成され得なかったのだが、全巻を通覧すれば、柳没後の編集となる第三巻も含めて、造本に対して独特の見識を持っていた柳の美意識が隅々まで感じられる内容となっている。

「挿絵」の役割

 柳は二十代の頃から、最先端の西洋美術の図版が毎号掲載されていた文芸美術雑誌『白樺』(一九一〇〜一九二三年)において、美術担当編集者としての役割を果してきた。『白樺』第二巻第一号(一九一一年一月)の巻末記事によれば、「雑誌の体裁に就いて一番八釜し屋は柳宗悦」であり、「不平もいうが上出来の時喜ぶのも」柳が一番だったという。「挿絵」(柳は図版を「挿絵」と呼んだ)を美しく見せることへの柳の追求は、この時代に端を発するものだろう。

 『民藝図鑑』においても、「民藝の意義」で「図鑑(ずかがみ)」と述べられていることから分かるように、その主役は掲載作品の「挿絵」にあるが、柳は「挿絵」の意義を高める要件として、次の四つを挙げている。第一は「何を選ぶか」で、柳の場合は「美しさ」が基準とされる。以下の要件は次のようになる。

 第二はどう写すかが問題である。(中略)写真はうまく撮ることと、見所を決めることとが必要である。(中略)見所と云うのはどう云う光でどの側からどの高さとどの近さとで見たら、ものの美しさを一番見ることが出来るかの問題である。見所如何で品物が活きるか死ぬかして了う。第三は出来た写真をどう処理するかである。品物の位置と余白との取り方である。(中略)特に二つ三つの品を同一頁に入れる場合複雑になる。品物の大小を示すのに之が又深く関聯する。第四はどう製版するかである。絵の大きさ、紙の大きさ、位置、墨色、光、影、それにバックの色、原色版にでもなれば中々容易でない。そうして出来たものを、どう読者に見せるか。見せ方が色々ある。物に準じて変えねばならない。(「雑録」『工藝』第四九号、一九三五年一月)

このうち、第二では撮影者、第四では製版者が関与するが、いずれも全体の方向性は監修者の柳や編者の田中によって決められなければならない。

 まずは図2を例に見よう。

戦前の民藝運動では取り上げられなかった中世の焼物で、小さな高台から上方に斜めに立ち上がる、山茶碗の中では極めて珍しい形状である。茶碗の図版としてはかなり上方から撮影されていて、見込みの釉溜りに視線を向かわせるのと同時に、解説で記される「長石粒が多い」素地、「無造作な附け高台」、「見込みに僅かに鉄釉が偶然に垂れ落ち」る「又とない景色」、「甚だ渋」い「裏の色調」、「際立っ」た「椽(ふち)のとり方」といったこの茶碗の見所が、余すところなく示されているのが分かる。

 図79の曽我物語屛風は、高さ約一七〇センチの屛風のうち僅か三〇センチほど(図版では四〇センチと表記されている)を切り取った部分図。

 

曽我五郎時宗が工藤祐経を討ち取った後に捕まり、仇の嫡男の犬房に扇子で打たれる場面は、図版の中央ではなく左上にある。説明的な要素を考慮するならば、すぐ左上で彼らを取り巻く頼朝や家臣たちの姿を含めた方が良さそうだが、図79では省略されていて、斜めに描かれる縁側を中央にして画面を上下に区切り、下方には主要場面との関連がさほど深くない松と白馬を入れることによって構図を落ち着かせる。部分図とはいえ一幅の絵とでもいうべき挿絵としてトリミングされた結果であろう。

 

 単色図版を見てみると、図13 の信楽の壺は、本来はかなり暗い色の地肌がぎりぎりまで明るく処理されていて、文様が際立って見えるようになっている。

 

図22の角鉢は、一番の見所である絵模様の濃度を高くして筆の走りを強調し、縁が斜めに立ち上がる器形と火ぶくれによる盛り上がりも、微妙な墨版の濃淡によって印象深く表されている。

 

 いずれも、各作品の持つ美質の把握が的確になされていなければ、それを強調することさえできないのである。柳による「挿絵のねらい処」とは、「原品の或る姿でもなく、又そのままの姿でもな」く、「その美しさの結晶を出す」ことであり、「挿絵」は創作的行為にあたるという(「雑録」『工藝』第四九号、一九三五年一月)。美術史における一般的な作品図版では、実物そのものへの忠実さが求められるが、これに対し柳が意図する「挿絵」は、「実物の美に忠実」であることが目指されているのである(「挿絵の取り扱い方」一九三一年)。『民藝図鑑』の図版は、まさに柳のいう「挿絵のねらい処」が顕著に表されたものであり、柳が記す解説よりもより直接的に、柳が見た「実物の美」を読み取ることができるのである。

(・・・つづきは文庫版『民藝図鑑』第一巻に収録)

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