若者が集まるような場所に行くと、それが街の広場でもオンライン上でも、日常的に「死にたい」なんて言葉は呟かれている。酒や金が飛び交う繁華街で青春を過ごした私にとっても、それこそ死ぬほど耳にする言葉だった。失敗の大きさを誇張するために軽い冗談として使われる場合もあれば、恋愛相手を揺さぶるために、あるいは経済的に追い詰められて口に出す人もいた。私自身もきっと「あ~もう死にたい」と何気なく発したことは幾度となくあるのだろう。そう呟いた者のほとんどは別に死んでいないし、大人になるにつれそう気軽に死にたいなんて言わなくなるのだけど、ごく稀に知人が命を断ってしまうことはある。死にたいと頻繁に口にしている若者であれ、そんなこと言わなくなった大人であれ、一度だけ口にした人であれ、その人が自ら死を選ぶ可能性は高くないがゼロではない。だから私にはわからない。誰が本当に死んでしまうのかも、死にたいと言いながら生き延びる方法も、この世が今誰にとって生きるに値しないほど苦しいのかも。
心理学者として15年以上自殺の研究を続けている著者が、自殺について分かっていることと分からないことを整理しながら丁寧にまとめた本書は、自殺そのものに関心を持つ者だけでなく、自殺が起こる世界に生きるすべての読者に開かれている。自殺の起こる統計的な原因や各国の自殺の扱いをめぐる歴史から、死にたいと言われたり思ったりした時に考えられる対処法、自殺対策への提言まで、あらゆる角度で自殺という現象に迫る。
日本だけでも年間約2万人もの人が自ら命を絶っているとされる中、自殺という現象について一切考えたことがない人はなかなかいないかもしれないが、正確な統計や法律を調べたり、直接的に予防策を練ったりしたことがある者はおそらくそう多くはない。故に多くの誤解もある。例えば子どもの自殺と聞いたときにはどうしても報道で扱われやすい「いじめによる自殺」を連想してしまうことが多いが、本書の示す統計によれば児童・生徒の自殺の大半はいじめによるものではなく、むしろ学業不振や家族との不和といった悩みが目立つ。そもそも「○○による自殺」と単純化した語られ方はニュースとしてわかりやすい反面、複雑な現象である自殺への理解を阻むことも多いのだ。
祖父の死によって自殺について考えるようになったという著者の態度は一貫して自殺そのもの、まして「死にたい」と思ったり言葉にしたりすることを全否定するものではない。身体の痛みによって傷の手当がなされて失血や化膿が防げるのと同じように、「憂うつな気持ちを感じて何もやる気がしないからこそ心身を休めることができ、避けがたい悲劇や喪失から立ち直るための充電をすることができ」るという記述は、安全でポジティブな言葉がメディアに溢れる昨今、それにばかり触れていると滅入ってしまう私にとっては深く納得するものだった。かつては自殺に罰則が与えられていた国も多く、自殺を予防しようという考えは別に古いものではないことも指摘される。前提を問い直すこうした作業によって自殺の善悪でなく自殺の何が問題かが徐々に見えてくる。
私たちの多くが自殺についてあまりに何も知らないのは、単に人ごとであるとか考えても無駄だとか思う以前に、その現象や言葉に強烈な恐怖と誘惑を同時に感じるからなのかもしれないと思う。世界は荒唐無稽で世間は厳しく、理不尽なことや理解できないことが溢れている。そんな世界から逃げたいと思うことはある意味とても自然なことで、自殺とあまり生真面目に向き合うと自分が絡め取られてしまうような不安がどこかにある。生き延びたいのであれば「死にたい」と思うような夜をポジティブな言葉で塗りつぶすのではなく、むしろそんな夜を愛すればいいのかもしれないと私には思えた。
(すずき・すずみ 作家)