ちくま学芸文庫

いまだ理解されぬゴフマンの初作
『日常生活における自己呈示』刊行に寄せて

4月に新訳が刊行されたアーヴィング・ゴフマン『日常生活における自己呈示』(中河伸俊・小島奈名子訳、ちくま学芸文庫 )。ときに「難解」とも評されるこの重要著作の読みどころ・留意点について薄井明さんに論じていただきました。ぜひご一読ください。(PR誌「ちくま」より転載)
 本書は、国際社会学会が「20世紀の社会学で最も重要な10冊」の第10位に選んだアーヴィング・ゴフマンの『日常生活における自己呈示』(以下『自己呈示』)の新訳である。 『自己呈示』が社会学の領域を越えて有名になったのは、日常の対面的相互行為を「演出論的パースペクティブ」から社会学的に考察したことによる。確かに、シェイクスピア作の喜劇『お気に召すまま』に「この世はすべてひとつの舞台。男も女も、人はみな役者にすぎぬ」という台詞があるように、社会的世界を「劇」と見なす視角は特に目新しいものではない。そうしたなかで、『自己呈示』の特長は、「劇場のパフォーマンス」という視角を単なるメタファーにとどめていない点にある。本書でゴフマンは、具体的な相互行為のエピソードを数え切れないほど多く取り上げ、「劇場のパフォーマンス」をアナロジーとして個々のリアリティを壊さない形で分析して、対面的相互行為を成立させている場面の構造的な配置および相互行為者のプラクティスに関する見取り図を描き出そうとしている。  しかし、『自己呈示』に関しては「ドラマトゥルギーの社会学」という一面的な理解が広まったため、非常に偏った読み方がなされてきた。『自己呈示』に関する解説は第一章「パフォーマンス」に集中する傾向があったし、この本を読んだといってもせいぜい第三章までしか読んでいない人が少なくない。また、「印象マネジメント」というキーワードが旧訳で「印象操作」と訳された結果、この語については「相手が抱く自らや第三者への印象を、自分にとって好都合なものになるよう、情報の出し方や内容を操作すること」(デジタル大辞泉)といった、本来のものとは異なる語義が流布してしまった。  こうした従来の読み方が的外れであることは『自己呈示』全体を読めば明らかなのだが、この著作を通覧して理解することがなかなかの難儀である。その理由の一つとして『自己呈示』のトリッキーな構成と展開が関係している。「劇場のパフォーマンス」というアナロジーの欠陥をゴフマンは本書の冒頭で認め、最終章ではこの視角を「仮の足場」だとして投げ捨てている。「序論はやむを得ず抽象的になるので読み飛ばしてもかまわない」と述べているその「序論」に、彼の社会学理論の要諦を書いている。また、「劇場のパフォーマンス」をアナロジーとすると宣言しながら、その一方で「信用詐欺」「秘密結社」「スパイ」その他のアナロジーを忍び込ませている、等々。このように、『自己呈示』は見た目よりかなり複雑でねじれた構造をした著作なのである。しかも、比較的小さなこの作品にゴフマンは、欲張りなほど多くの内容を詰め込んでいる。  こうした特異な形式で書かれた『自己呈示』を読んで理解するには、原典を精読するのがベスト、正確で読みやすい邦訳書があればそれを読み込むのがセカンド・ベストである。今回の新訳では、旧訳で「印象操作」だった訳語を「印象管理」に変え、第四章のタイトルを「見かけと食い違った役割」と訳し直し、第一章の最後の小見出しを「リアリティと作りごと」と訳出するなど翻訳上の工夫が随所にみられ、邦訳でこの著作を読んでいく際のストレスはかなり軽減されると思う。  ただ、改訳により読みやすくなったとはいえ、それだけで『自己呈示』が理解しやすくなるわけではない。一癖も二癖もあるこの著書の書き方はそのまま残っているし、作品として完成度が高くないことも本書の解読しにくさを助長している。さらにいえば、『自己呈示』はゴフマンの「出世作」ではあっても「代表作」ではない。その直後に相次いで彼が公刊した『出会い』『アサイラム』『公共の場での振る舞い』『スティグマ』『相互行為儀礼』という前期の著作群の一冊に位置づけてはじめて、ゴフマン社会学の「一つの演目」として『自己呈示』の真義が理解できるということである。

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