ちくま新書

フーコー、ドゥルーズ、デリダ "以後" を読む
『現代フランス哲学』はじめに

1968年5月にパリで起こった「革命」を起点に、若者や政治を巻き込み、時代や経験に深く根ざす思想運動として発展した現代フランス哲学。資本主義の矛盾や構造的な抑圧がさまざまに露呈する1980年代以降、それは大きな変化を遂げました。実存主義、構造主義、ポスト構造主義を経て、政治や宗教、労働社会、ジェンダー/フェミニズム、科学と技術、エコロジーをめぐる諸思想に至るまで。フーコー、ドゥルーズ、デリダら巨星なき後も脈々とつづく、強靭な思想の流れを一望する『現代フランス哲学』より、「はじめに」を公開します。

 本書では、現代フランス哲学の流れを概説していきます。
 「現代フランス哲学」と聞いて、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダなどの「現代思想」(あるいは「ポスト構造主義」や「ポストモダン思想」)をイメージする方は多いでしょう。
 これまで日本でも「フランス現代思想」に関しては優れた解説書や研究書が多く書かれてきました。しかし、本書はこれまでの類書とは若干趣が異なります。
 もちろん本書でも「フーコー、ドゥルーズ、デリダ」を中心とした「現代思想」については触れますが、彼ら以降の、より「現代」のフランス哲学に力点を置いています。
 いわゆる現代思想として知られる哲学者が活躍していたのは一九六〇年代から八〇年代の時期にあたります。ポップミュージックで言えば、ビートルズ、レッド・ツェッペリン、クイーンの時代。日本の年号で言えば昭和です。
 もちろん、ここで言われる現代思想がもたらした哲学的なインパクトはものすごいものがあり、今日もなお振り返る価値があります。その意味では、現代思想が提示された時代がすでに数十年前だから「現代」ではないのでは、というのは少々愚問でしょう。現代思想は、私たちが今生きるこの「現代」にも通底するような考え方を示したという点では、「現代」思想と正当に名乗ってよいと思いますし、本書はそのことをいささかも否定するものではありません。
 ただ、そうした「現代思想」の意義については類書に譲りましょう。本書が関心を寄せるのはむしろ、現代思想以降、とりわけ1980年代以降の「現代」のフランスのなかでどのような哲学や思想が展開していったのかです。
 アルチュセール、バルト、フーコー、ドゥルーズといった、「現代思想」の巨星たちが徐々に退場する1980年代以降も、フランスではけっして哲学の波が途絶えたわけではありません。彼らほどの強烈なインパクトは残さなかったかもしれませんが、根本的な問題やアクチュアルな問題について、さまざまな視角から、きわめてスリリングな考察を展開している哲学者がたくさんいます(ちなみに、本書で「フランスの哲学者」というのは、国籍にかかわらず、フランス語でその哲学を発表している人のことです)。しかも、実のところそうした哲学者たちの書いた著作の多くが日本語に訳され読めるようになっているのです。
 ところが、こうした「現代」のフランスの哲学者たちの仕事をある程度のまとまりをもって紹介する本や、彼らの関係を一望できるような見取り図は、私の知るかぎりあまりありません。本書では、そうした「現代思想」以降の「現代フランス哲学」を対象として、個々の哲学者の特徴や意義を踏まえつつ、全体的な流れや時代的背景、影響関係や思想の位置づけがどのようになっているのかを示したいと思います。
 なお、本書は著作を取り上げるときにはできるかぎり邦訳のあるものにするという原則を立てています(ただし公刊年は原著初版を記しています)。もちろん分量的な制限がありますので、すべてを論じることはできません。本書は、これまで断片的に知られていた哲学者がどういう流れにいるのか、どういう時代背景とともに思想を形成していったのかを少しでも見えやすくするように心がけています。

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