◆恵みをもたらす【豊穣神】/女神
ローマ神話の花と春の女神である。もとはクロリスというギリシアの女神であったとされる。西風の神ゼピュロスが彼女を見初め、強引に妻にした。その代償に、彼女に花を支配する力を与えたのだという。
◆花の神様のすごい力
ギリシア神話のゼウスと妃のヘラは、ローマ神話ではユピテルとユノと呼ばれる。ユノはユピテルが自分一人で娘神のミネルヴァ(アテナ)を生んだことに腹を立て、自身も一人で子を産みたいと願っていた。そこでフローラが、触れただけで妊娠するという花をユノに与えた。こうしてユノは一人で軍神となるマルス(アレス)を生んだのだという。
フローラの神話は、ローマにおいて多くはない。しかし信仰はあり、紀元前3世紀頃にローマのアウェンティヌスの丘のふもとにフローラの神殿が建てられ、春には祭りも開催されたのだという。
◆名画「プリマヴェーラ」に描かれた死と豊穣
しかしながらフローラが最も花開いたのは、ルネサンス期であったと思われる。ボッティチェリによる名画「プリマヴェーラ」にその姿が描かれているからだ。
この絵において、右端に西風の神ゼピュロス、そのゼピュロスが捕らえようとしているのがクロリス、そのクロリスの左隣りにいるのがフローラである。中央には愛と美の女神ヴィーナス(アプロディテ)が描かれている。
この絵が意味していることについて、神話学的な観点から考えてみたい。ゼピュロスに捕らえられたフローラの口元からは草花が生えだしている。そしてそのクロリスが変身したフローラは、全身に草花をまとっている。
このクロリスとフローラを解釈するのに有効と思われる興味深い神話がメキシコにある。太陽の神と月の神が結婚してトウモロコシの神が生まれた。トウモロコシの神は地面の中に入っていった。すると彼の身体からは木綿が生え、目からは作物が、爪からはトウモロコシが、その身体の他の部分からも、人々が栽培して食べて生きていく食物が生じた。
これは「ハイヌウェレ型」と呼ばれるモチーフに属する。「ハイヌウェレ型」では、神的存在が生きている間は排泄物のような形で食物などを出し、死んでその死体から食用植物を発生させる。先のメキシコのトウモロコシの神の話では、彼が生きながらにして作物を生み出したのか、それとも死んでその死体から作物を生み出したのか、はっきりしない。しかしほとんどのハイヌウェレ型の神話では、死体からの作物の発生を物語る。作物の発生と死は表裏一体である、というのが神話的思考なのである。
クロリスとフローラに話を戻そう。クロリスは生きながらにして植物を発生させた。そして全身に草花を身にまとうフローラへと姿を変えた。ここにハイヌウェレ型神話の要素を見出すとするならば、クロリスの背景には「死」がある。彼女は植物を発生させた代償にクロリスとして死んで、そしてフローラとして生まれ変わって草花の輝かしい女神となったのではないだろうか。そのように考えると、この「プリマヴェーラ」の絵には、死と豊穣の匂いが湧きたつのである。
(参考文献;松村一男、森雅子、沖田瑞穂編『世界女神大事典』原書房、2015年、「フローラ」の項目〔平山東子執筆〕