ちくま新書

ケルト神話、その「分からなさ」を解きほぐす
疋田隆康『ケルトの世界――神話と歴史のあいだ』書評

いまだ多くの謎に満ちた古代ケルト社会。神話と歴史学とを交差させつつその実像に迫るのが『ケルトの世界――神話と歴史のあいだ』(疋田隆康著)です。このたび同書について、神話学者の沖田瑞穂さんにご寄稿いただきました。本書をとおして見えてくるケルト神話のさらなる広がりとは? ぜひご一読ください(『ちくま』12月号より転載)。

「ケルト」には「分からなさ」がつきまとう。どういう人々が、どこに住んでいて、どんな文化を持ち、どんな神話を語っていたのか。なにもかも曖昧模糊としていると、常々感じていた。その「曖昧さ」をはっきりさせ、丁寧に解きほぐしてくれる、それが本書、疋田隆康の『ケルトの世界――神話と歴史のあいだ』である。
 その手法も、「ケルトとはこうである」とはっきり明言するのではなく、歴史学、神話学、考古学、分子生物学などからそれぞれどのようなアプローチがあり、どのような問題が残されているのかを丁寧に論じながら、「ケルト」の様々な特徴的な文化について紹介されている。
 本書では積極的にケルト神話を他地域の神話と比較しているのも特徴として挙げられるだろう。たとえばケルト随一の英雄クー・フリンが不死身のフェル・ディアと戦う神話をめぐっては、インドの叙事詩『マハーバーラタ』に現われる英雄、カルナとアルジュナの対戦が取り上げられている。どちらも「英雄が不死身の英雄と戦う」という共通点をもつのだという。
 他に、このような比較も可能であろうと思うことを2つほど、紹介したい。
 フィアナ戦士団のオシーンはニアヴという娘に招かれて「常若の国」へ行く。そこで三年楽しく暮らすが、里心がつき、帰りたいとニアヴに言う。ニアヴは馬を与え、決して降りないように忠告する。アイルランドに帰るが、そこでは300年もの時間が過ぎていた。オシーンは過って馬から落ちてしまい、たちまち老人の姿となってしまった。
 この話は、だれもが気づくように、日本の「浦島太郎」の話とそっくりである。それだけではない。類話は中国にもある。王質という男が山の中の洞窟で童子が琴を弾きながら歌を歌っているのを見る。童子は棗の種のようなものを男に与えた。男はしばらく斧の柄にもたれかかって音楽を聴いていたが、気づくと斧の柄は腐っていた。男が家に帰ると、数十年も経っていて、誰一人として知り合いがいなくなっていた。
 異界に行って帰ってくると数十年、あるいは数百年の時間が経っていたということで、こういった話を私は「ウラシマ効果モチーフ」と呼んでいる。今のところケルトと中国、日本に類話を見つけているが、他にもあるかもしれない。ユーラシアの西の端と東の端という分布は興味深い。
 本書で紹介されている、オシーンの父フィンの話も面白い。フィンは、「知恵の鮭」といって、その鮭を食べるとあらゆる知恵がつくという伝説の鮭を焼いていたとき、魚の油がはねて親指にかかったので、それを口に入れてなめた。するとあらゆる知恵を得て、困ったときには親指をなめると知恵がわいてきてどんなことでも分かるようになったという。
 これに似た話は『マハーバーラタ』にもある。パーンダヴァと呼ばれる主人公の五人王子の末弟サハデーヴァは、名目上の父であるパーンドゥ王が死んだとき、蟻が運んでいたその肉片を一口食べた。それによって、過去に起きたことから未来に起こることまで、すべて分かるようになったが、クリシュナ神との約束で、その知恵を他人に漏らしてはならないことになった。
 本書でも指摘されるように、ケルトとインドは「インド=ヨーロッパ語族」という言語の家族の仲間である。そのため、神話にも似たものが多く見られるのだ。
 ケルト神話を足がかりとして他地域の神話と比較できる、そのことの意味は大きい。本書によって、比較神話学はさらなる進展を見せるであろう。

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