1.「死者をふたたび殺す」松野官房長官発言
Q 関東大震災百周年の今年、政府高官が朝鮮人虐殺事件を否定するような発言が相次ぎました。8月30日には松野博一官房長官が「事実関係を把握できる記録が、政府内に見当たらない」と発言しました。政府の姿勢に対してどのように感じますか?
A 松野博一氏は、千葉県立木更津高校の出身です。震災直後、あの町では数百名の自警団が、警察署に収容中の朝鮮人を引き渡せと叫んで騒乱をくり広げました。1923年9月3日から実に3日間にわたっての事件でした。5日には日本刀や棍棒、鳶口で武装した自警団が、木更津駅前の巡査派出所を襲撃、警察署にも乱入して署長以下数名に重傷を負わせました。木更津事件では14名が起訴されて13名が執行猶予付きの懲役刑に処されています。松野さんには、地元の歴史をふまえた上で「記録が見当たらない」となお発言できるのか。ぜひともお伺いしたいところです。
Q 記録がないどころではないと?
A はい。山田昭次「朝鮮人虐殺事件関係判決一覧」(注1)には、区裁判所から大審院まで75件の自警団員に対する判決が収められています。また、国会図書館憲政資料室所蔵の「司法省調査書」(注2)には、民間人による朝鮮人・中国人虐殺事件等114件、軍隊による虐殺11件、警察による虐殺及び虐殺関与3件が明記されています。
松野発言はあわよくば事件そのものを否定し、死者をふたたび殺すに等しい。韓国や中国、朝鮮、日本に今なお大勢の遺族がいらっしゃることを思えば、あまりに心ない発言です。
(注1)山田編『朝鮮人虐殺事件新聞報道関連史料 別巻』(緑蔭書房、2004年、251-358頁)
(注2)司法省「震災後ニ於ケル刑事事犯及之ニ関聯スル事項調査書」(山岡萬之助関係文書)
2.調査を始めたきっかけ
Q 朝鮮人虐殺事件を研究対象にしたきっかけについて教えてください。
A もともと私は、横浜市鶴見区で暮らす沖縄の人びとの聞き書きをしていました。労働史の調査です。古老からの又聞きによれば、震災の際には沖縄の人も恐い目にあったと言います。当初はそうしたこともあったであろうとあまりに気に留めていませんでした。
日本人襲撃事件に関する報道は比較的充実しているので、沖縄出身者の犠牲についてもたやすく確認できるだろうと思っていました。ところが、いくら調べても千葉県検見川町(現千葉市花見川区)で殺された人以外見あたりません。どうも「朝鮮人ばかりではなく沖縄の人も」は伝承の域を出ないのではないか、どうしてこのような伝承が生まれたのだろうか。こうしておよそ20年前から本腰を入れて調べ始めたわけです。
調べていくと十分な裏付けのない「伝承」が他にもたくさん見つかりました。自警団の犯罪に関する伝承をデータで検証する、これが本書の隠されたテーマにもなっています。
3.「民衆犯罪」の主体は?
Q 先行研究は「虐殺事件の権力犯罪としての側面に集中し」、国家の責任を強調するものが多かったと指摘しています。今回、「民衆犯罪」を主題とした理由は何でしょうか?
A 朝鮮人虐殺事件における国家の責任は明白ですが、民衆の主体的かつ積極的な関与を見過ごすことはできません。しかし、端的に言って先行研究を読んでも分からないことがとても多い。だから民衆犯罪を主題としました。
朝鮮人が火を放った、毒を投じた、暴動を起こしたというデマが、治安当局や新聞、避難民の口から伝わり、それを信じた人びとが虐殺事件を起こしたのは間違いない。当局の指示で民衆が武装したのも確かです。しかし、人殺しまで命じられたわけでもありません(軍や官憲が「殺しても差し支えなし」と教唆した例はあります)。また、官憲は「良鮮人」には手を出すなと命じたが、自警団はその区別を拒みました。女性や子ども、妊産婦や乳幼児に至るまでを無差別に殺した。どうしてこんなことが起きたのか、どんな人びとがやったのか、こうした基本的な問いに答えたかった。
Q 民衆犯罪をリードしたのはどのような人びとでしょうか?
A 消防組です。自警団員に占める消防組員の割合は、東京と千葉、埼玉で六割を占めていました。そして組頭や小頭といった幹部が自警団を指揮して、朝鮮人の殲滅と避難民の救済活動を担っていた。
朝鮮人虐殺現場を描いた萱原白洞の作品には、消防組の印半纏を着た男たちが白いチョゴリを着た朝鮮人を後ろ手にしばって連行する情景、消防組員が竹槍で朝鮮人を刺し殺す情景、消防組の高提灯を掲げてはやし立てる情景が活写されています。
Q 消防組が中心というのは意外です。
A 消防組は警察の下部組織で、幹部の任免から指揮監督の一切を、各県の警察部が掌握していました。震災の数年前から警察は「民衆の警察化」政策を推し進め、消防組に米騒動のような民衆暴動を鎮圧する役割を期待しました。消防組もこれに応えて保安組合や自警義団といった自警団の前身に参画し、警察主催の「民衆警察講習会」を積極的に受講しました。震災で警察力が麻痺したとき、これに成り代わって消防組が自警団を指揮するのは当局の構想通りだったと思います。消防組は日頃から非常事態に対応できるよう鍛えられた組織でした。ところが、一旦、解き放たれた民衆の暴力は凄まじく、警察にはコントロールできなかった。消防組に煽られ、消防組を支えようと数百数千の群衆が加わったためです。「民衆犯罪」とは言うものの、その中核には、警察が組織し、訓練した消防組がいたという理解は欠かせません。先行研究はその重要性を見落としてきたと思います。
Q 消防組を支えた群衆とはどのような人びとですか? これまでは米騒動の参加者と同じ、「都市下層」の民衆が注目されていました。
A 朝鮮人虐殺事件等の被告450名の6割弱が商人や商店雇、職人といった「在来産業」従業者でした。次いで「農漁業」従業者が3割弱。残り1割強が工員や会社員等の「近代産業」従業者です。したがって暴行参加者の主力は商人、職人、農民、漁民でした。こうした人々が群衆化して虐殺事件、騒乱事件を起こしました。
当時の「在来産業」従業者は有業人口の3割程度(1920年国勢調査)です。だから被告に占める割合はその倍にあたります。米屋、八百屋、魚屋といった商人や商店雇、大工、鳶、左官などの職人は地域に生活基盤を築いています。地縁あってこその生業(なりわい)でした。生産や販売、消費を通じて互いに支え合い、祭りや防災、防犯といった仕事も分かち合っている。そして自警団は「ヨソモノ」から地域を守るための組織でした。「在来産業」従業者が被告の過半数を占めるのも当然でした。つまり、関東大震災下の虐殺事件は、職人や商人、農漁民など「ふつうの地元民」が犯した犯罪です。そのうち消防組は最もアクティブな地元民の組織であった。
一方、被告に占める土工、日雇など「都市下層」の典型的な職種に従事する人の割合は1割強でした。「都市下層」主犯説は工事現場や工場周辺で成立する余地を残しますが、民衆犯罪全体には当てはまりません。
Q 自警団の主力として在郷軍人に注目する議論がありますが?
A 在郷軍人主犯説の弱点は、彼らが自警団を指揮し、虐殺事件を主導した直接的な根拠を示せない点にあります。自警団員の中で在郷軍人の占める割合は1~2割に過ぎません。しかも彼らの半数は、兵役経験のない補充兵でした。当時は軍縮気運も高く、在郷軍人の肩身は狭かった。はたして彼らが消防組員たちをリードできたでしょうか。
4.データと数値で語る
Q 本書の特徴は表がとても多いことだと思います。事件の発生状況から自警団像、加害者と被害者のプロフィール、起訴件数から判決に至るまでが数値化されています。データや数値で物語る手法を用いた理由を教えてください。
A 何といっても虐殺事件に関与した人の属性を押さえたかった。まず、年齢や性別、居住地、職種などを明らかにする。次いで一定の属性を共有する人がどうして殺傷事件を起こしたか、あるいは殺されたか、自分なりに納得できる理由を探していこうと思いました。大量殺戮事件をピックアップすることもできますが、恣意的な感じは否めません。幸い、検察が立件・起訴した事件については「司法省調査書」にまとめられています。一つ一つを事件台帳に整理した上で、公刊されている『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』や『関東大震災の治安回顧』を利用して、それぞれに関する情報を追加していきました。手間がかかる上、厳密かつ正確とは言えませんが、民衆犯罪を俯瞰するには十分だろうと思います。
5.日本人襲撃事件の基本的な構図
Q データ分析を通して明らかになった代表例を教えて下さい。
A たとえば「十五円五十銭」の伝承について考えていきましょう。自警団は通行人に十五円五十銭など濁音を含む単語を発音させて、発音不明瞭な人は朝鮮人とみなして殺傷したと言われてきました。これは自警団が日本人を殺さないように配慮したこと、襲撃対象を選別したことを前提にしています。だが、そんな手続をいつも踏んでいたのでしょうか。
虐殺事件の経緯を見ていくと、たいていの場合、自警団は朝鮮人の住まいや勤め先、警察や軍隊への移送途上を直接襲撃していました。ここに選別の入る余地はなかった。日本人襲撃事件についても「いきなり襲いかかった」ケースが半数近い。訊問した場合でも、相手が身分証明書を見せれば盗んだのだろうと言い、巡査や知人が身元保証しても容赦しませんでした。自警団は、相手を朝鮮人か日本人か、識別した上で殺したとは言いがたい。怪しいと思えば無差別で殺した。日本人の被害は無差別襲撃の必然です。「十五円五十銭」の伝承は事件の経緯と意外にそぐわないのです。
また、「十五円五十銭」からの連想でしょう。従来、発音不明瞭を連想させる東北や沖縄出身の人、ろう者の被害が多いと言われてきました。しかし、自警団に殺傷された日本人約90人のうち東北出身者は2人、沖縄出身者は1人、ろう者は1人でした。それほど多いわけではない。発音不明瞭な人ばかりが襲われたというのも裏付けを欠きます。
では、どのような人が襲われたか。被害をこうむった人の多くは「若い勤労者と学生」でした。工場や会社、学校、警察、軍隊に所属する人が実に7割を占めました。これら近代セクターに属する人々は一日の大半を職場や学校で過ごします。地元にはいません。だから地縁的な結びつきが弱い。地場で暮らす人びと、前述した「在来産業」従業者にとっては全くの「ヨソモノ」だった。「ふつうの地元民」が近代セクターに属する「ヨソモノ」を襲った。これが日本人襲撃事件の基本的な構図でした。
6.帝国日本における沖縄出身者の位置づけ
Q 第3部では「朝鮮人同様、標準語をしゃべれない沖縄人も大勢殺された」という「沖縄出身者襲撃伝承」を覆しました。沖縄出身者にフォーカスした理由を教えて下さい。
A 関東大震災下において宗主国の日本人は殺す側、植民地の朝鮮人は殺される側にありました。これが1920年代の植民地帝国日本の実態です。このとき沖縄出身者はどのようなポジションに立たされたか。被植民地であり、宗主国の一部でもある沖縄の人びとはどのような状況に追いこまれたか、これを明らかにしたかった。それには「沖縄出身者襲撃伝承」を検証しなくてはなりません。伝承を支えた比嘉春潮の証言を見直すと共に、勤勉な自警団員となった八重山出身の方言学者の震災記を検証しました。さらに東京江戸川の製紙工場や川崎の紡績工場で働く、千数百名の労働者が遭遇した状況も明らかにしました。すると彼ら彼女らのすぐとなりで朝鮮人が殺されていた。江戸川では同じ職場の仲間が戒厳軍の手で、川崎では紡績女工の遺体を発掘していた土工が民衆の手で殺されました。震災の犠牲となった遺体の多くが沖縄出身の少女でした。つまり、「沖縄出身者は殺す側の自警団にも、殺される側のすぐ隣り」にもいた。これが歴史上の立ち位置です。
こうした事実に照らして、震災当時、標準語がしゃべれないことが問題になったとは考えづらい。実際、自警団に殺害された人も一人しか判明していません。この伝承は史実に則ったものではありません。しかし、1940年代の方言撲滅教育の中で「沖縄出身者襲撃伝承」が教材化された上、日本軍が沖縄語話者をスパイとして処刑するに至り、これは予言的な歴史事実へと様変わりした。この経緯には、帝国日本における沖縄の布置がくっきり反映されていると考えます。
7.これからの朝鮮人虐殺事件研究
Q 朝鮮人虐殺事件に関する資料はすべて公開されたのでしょうか?
A 眠っている資料はまだまだあります。まず、朝鮮人殺傷事件、日本人殺傷事件等の裁判資料がほとんど公開されていません。これは政府主導で公開すべきです。また、先に新聞発表があった神奈川県知事から内務省警保局長にあてた朝鮮人虐殺事件等の記録は、神奈川で初めて見つかった公的文書です(「震災ニ伴フ朝鮮人並ニ支那人ニ関スル犯罪及保護状況其他調査」1923年11月21日)。こうした「発見」は今後も続くでしょうが、政府が加害の歴史を直視しない限り、その全体像は依然闇に包まれたままです。
以上