ちくまプリマー新書

全体のルールのために個人はどこまで犠牲になるべきか……「法哲学」ではこう考える
『ルールはそもそもなんのためにあるのか』より第1章を公開!

ルールは集団生活に必要不可欠なものだと思われている。実際、社会を円滑にまわすために個人の活動よりもルールが優先されることはよくあるだろう。しかし非常時はどうだろうか。『ルールはそもそもなんのためにあるのか』より第1章を丸ごと公開!

ルールは何のために生まれたのか

 人類が集団生活をしている以上、ルールは必要不可欠だと思われている。

 人類どころか、野生の動物にも、言語がなくてもルールはある。犬やオオカミには、腹を見せた相手には攻撃しないというルールがある。さらにエチオピアのオオカミは、草食動物のゲラダヒヒに狩りを助けられているため、彼らを食べることなく共生している。あるオオカミがタブーを犯してゲラダヒヒの乳児を襲ったとき、大人のゲラダヒヒがそのオオカミに殺到して追い払い、事なきを得たという。こうしてみると、ルールは必ずしも言語によって明示される必要はなく、当初は集団生活の中で個体が身体で知ってきた経験則の積み重ねで生じたものだと言えよう。

 そこで、まずは人類社会のさまざまな局面で現れ、定着しているルールの諸類型を確認しておこう。

 人間と動物に共通するルールの発端は、「縄張りの画定」と「序列付けの必要」にあった。縄張りは弱い種が他の個体や集団から自らを防衛し絶滅を免れることに役立ち、序列付けは仲間内での破滅的な争いを防ぎ、種の生存能力を増大させるために役立つ。これらのルールの原型を、言語が発達していない段階の生き物は積み重ねられた経験や遺伝子情報で獲得したのだろう。

 しかしその後、感情や知性を「余計に」持つようになった人間は、独自にルールを発展させていった。集団内での序列を守るために、上位者に反逆する者には罰が科されることとなった。また各人の財の所有を確実にするために「所有権」が生み出された。

 そして人間が他の動物たちと決定的に違っていたのは、自然的な秩序に飽き足らず、それを解体して人為的な秩序を作り、その新秩序を維持するためにこれまた人為的なルールを作ったことだった。

 こうして人間社会にはさまざまな局面に則して多様なルールが発見されたり作られたりしてきた。それらを分類してみよう。

平常時のルール:世界や社会を円滑に回す

「法律(ルール)ってのは世界を回すためにある。お前を守るためじゃない」

 これは私の大好きな漫画『ワールドトリガー』の主人公・空閑遊真が、亡き父から受けた言葉である。たしかに原型的なルールは、個人よりは集団生活を秩序づけ、円滑に「回す」ためのものである。

 わかりやすい身近な例は、交通ルールである。自動車も歩行者も信号の「進め・止まれ」や進行方向を守らなければ事故が多発して混乱する。だから交通ルールには道徳的な善し悪しや個人の思想信条は関係なく、皆従わねばならない(あおり運転犯になりたいなら別として)。

 このように、集団行動を衝突なく整然と進める技術的なルールというものがまずある。これらは社会や世界を円滑に回すためのものだが、同時に、各人が安全に暮らせることにもつながる。たとえば、航空機に搭乗する時には、機内持ち込みができないものがあらかじめ決められている。ハサミ、ナイフなどの刃物類、ゴルフクラブ、先のとがったもの、スタンガンなどである。航空機は空中の密室である。そんな中でこれらは凶器になりうる可能性があるからだ。中には「自分は温厚で常識のある人間だから凶器には絶対しない。だからカスタマイズした世界唯一の愛するナイフを持ち込ませてくれ」という乗客もいるだろう。しかし本人がそう思っていたとしても、空中で性格が豹変するかも知れない。万が一でも機内でナイフを振り回されては大変なことになる。他の乗客や機長ら乗務員の安全を確保するため、何より本人が凶悪犯にならないためにも、このルールには従わねばならないのだ。

 個人の自己主張や特殊性よりも、全体の秩序を尊重する思想もある。古代ギリシアのアテナイというポリス(都市国家)の市民裁判で、不当判決で死刑を命じられた哲学者ソクラテスは、不当判決に従わないという闘いをするのではなく、祖国の裁判が命じたことにあえて従うことこそが国の秩序を保つとして、死刑を受け入れた。彼がそうした理由は、次のような考えにあった。ひとつは、自らも含めアテナイの市民ひとりひとりに、こんな不当判決を出すほどに堕落した自らの責任を反省してほしいということ、もうひとつは、祖国の法や判決への不服従はやがて法秩序を破綻させることにつながるから、とりあえず私情を捨てて服従すべきだということ(悪しき法は破ることによってでなく、議論と説得によって改正すべきである)である。

 現代の個人主義的な考え方からすれば、腐敗した祖国の秩序維持のために罪なき個人が犠牲になるなんて、信じられないことだ。私なら絶対逃げる。だが秩序とルールが遵守されてこそ国は安定する。やはり集団生活を整然と送ることを個人の事情より優先するという思考もある。

 とはいえ、全体の秩序とルールを守るために、個人がどこまでも犠牲になっていいわけではない。国のルールが個人よりも優先されるべき限度とは、はたしてどこまでなのだろうか?

弱者を優先して救済するためのルール

 財や資源が充たされていて、人々に余裕がある平常時には、相対的に「弱者」と見なされる人々を「強者」が優先して救済することが不文(文字には書き表されないこと)のルールとされる。共和政ローマの時代には、裕福な貴族が平民に娯楽などのサービスをすることが当たり前という、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)という道徳的ルールがあった。また、京都大学の研究チームが、前言語期のヒト乳児を対象とした複数の実験から、乳児は弱者を助ける人を肯定する傾向をもつことを明らかにした。弱者を助けることを肯定する傾向は、ヒトに生来的に備わっている性質である可能性が高いという。

 災害時に強者が弱者を優先的に助けるという例で典型的なのは、映画にもなってよく知られているタイタニック号沈没事故である。1912年の4月、イギリスからニューヨークに向かっていた当時世界最大の豪華客船タイタニック号は、2224人の客を乗せたまま氷山に衝突し沈没、結果的に1514人が亡くなった。衝突から40分たった後、航海士が船長に「女性と子供を救命ボートに乗せましょう」と提案し、結果的に女性と子供は救命ボートに乗った(ただこのときの航海士同士の思惑が異なっていて、余裕がある救命ボートに男性を乗せた航海士もいたらしい。男性を後回しという考えで一致していたかどうかは疑わしい)。いわゆる、海難事故などの場合の「Women and Children first(女子供が先だ)の典型である。

 このルールは差別の裏返しだという批判もある。たとえば「レディ・ファースト」などそうだ。往時の欧米の女性は男性に支配され、結婚、就職、外出などの自由がなかった。代わりに男性が、危機に瀕している女性を助ける義務を負っていた、というだけのことである。事故の場合に、屈強な男性が女性や子供を助けず先に逃げ出したら非難された(助かりたい気持ちには老若男女変わらないのにね)。

 また、社会が安定していて財や資源が充たされている場合には、差別などにより歴史的に長らく不利益を被ってきた集団に就職や進学への優先的チャンスを与える、積極的差別是正措置という政策がとられる。

資源に限界がある場合のルール

 突然の大災害で極めて多数のけが人が出るとか、パンデミックによって患者が増大して医療機関が全てに対応できない場合には、「救える者を優先して救う」というルールがとられる。これを「トリアージ」という。負傷の程度や緊急度に応じて、救済の順序が決められることだ。「救える者」、つまり生きる可能性が高い人を優先するのだから、すでに息絶えている人、または治療をしても死を免れない重篤な傷病者は、非情なようだが後回しにされる。重傷だが治療を急げば助かるだろう人が最優先され、続いて重傷だが命に別状のない者、軽傷者の順に救済される。

国家や社会の崩壊時には「自分が生き延びる」ルール

 全体の秩序を安定させるための平常時のルールなんていうのは、国家や社会が成り立っている場合にのみ意味がある。ということは、当の国家や社会が崩壊している場合には、個人が自分の生よりも全体の秩序を守ることを優先させる必要は限りなく減少する。

 もちろん「正義はなされよ、よしや世界が滅ぶとも」という言葉があるように、自分を取り巻く社会や国家、あるいは世界が崩壊していたとしても、ルールを守る責務には何の関係もない、個人は誰も監視する者がいなくても、ルールを守らねばならないのだという意見もある。しかし自分だけがルールを守っている間に無秩序になった人々に出し抜かれ、強奪され、あげくの果てには殺されるのはあまりにも馬鹿げている。他の人々もルールを守っているなら自分も守るが、ルールを守る人がいなくなったら、ルールよりも自分を優先するのが生きものとしては当然だろう。

 2020年にアメリカのある都市で暴動が起こり、店という店がことごとく暴徒によって破壊されている最中、ある女性がおいしいケーキ屋から、破壊に巻き込まれる前にケーキとワイングラスを支払いなしに持ち出して去ったことがSNSで話題になった。彼女がやったことは通常では万引きなのだが、もうそれ以上に無法状態、大混乱を極めている街中で、放っておいたらせっかくのおいしいケーキが台無しにされてしまう。そこで彼女はケーキを守って自ら楽しむために、同じく無法な盗みを敢行したのだ。丸裸のホールケーキを手に混沌とした街中を颯爽と歩いていく姿をとらえた動画を見た多くの人々は、彼女を責めるどころか、「おいしいケーキとワインで良い時を過ごしてくれよ」などと、無法状態の中で人生の楽しみを大切にしたその行為に喝采を送った。

生き延びるために他人を蹴落としてもよいような状況

 国家や社会を成り立たせる法をはじめとする、メンバーが守るべき共通ルールが全く存在しない状況を哲学者たちは仮想して、それを「自然状態」と名付けた。自然状態においては人々がルールを守るかどうかを監視し、守らなかった場合に処罰する機関は存在しない。人は自分が生き延びるために他人から強奪し、抵抗されれば攻撃し、逆に強奪された者は自力で取り返す。自分が生き延びるために必要なら、他人を死に追いやっても仕方がない。

「カルネアデスの板」という古代ギリシアに提起された問題はまさにその原型である。船の遭難で大海に投げだされた男が、辛うじて人ひとりが乗ることのできる板を見つけた。彼は助けが来るまで、それに乗って生き延びようとしていた。ところが遅れてもうひとりの男が、その板につかまろうとしてきた。2人目の男がこの板に乗ろうとすれば、1人目の男も共に沈んで死んでしまう。そこで最初の男は、自分が生き延びるために2人目の男を蹴り落とし、溺死させた。国家がある状態では殺人(あるいは緊急避難:現在の危難を避けるためにやむを得ずにした行為)になる行為だが、大海という無法状態で自分が生き延びるためにはやむを得ない。

 1884年に起こったミニョネット号事件もそうだ。イギリス船籍の同船は難破し、乗組員4人が救命ボートで漂流した。しかし救助船と出会えず、食料や水も尽きてしまった。飢えに苦しんだ3人は、最も衰弱していた独身のキャビンボーイを殺してその肉を食べ、血を啜った。救助された3人はイギリスに戻り殺人罪の容疑で裁判にかけられた。その際、前述した「カルネアデスの板」のような緊急避難の適用が考えられたが、イギリス高等法院は謀殺罪として3人に死刑を宣告した。だが世論の多数意見が無罪にすべきだと求めたため、当時の国家元首であったヴィクトリア女王の特赦により、禁固6ヶ月に減刑された。

 自然状態では、個人は自分が生き延びること、すなわち「自己保存」を図る自然権を行使してよいと論じたのが、17世紀イングランドの哲学者トマス・ホッブズである。彼は自然状態を「万人が万人に対して狼である」状態、つまり各人が他人の敵意に怯え、裏切られ傷つけられ奪われ殺されることを避けようとしている状態であると考えた。それはつまり、自分が生き延びるためには、必要ならば他人を踏み台にしたり、自分に襲いかかる者に反撃し、殺しても構わないということである。戦争のように秩序が失われた状態では、各人が自分の「自己保存」を図るための自然権を行使して構わないというように。

 一見するとむちゃくちゃなようだが、緊急時においては合理的なルールになる。たとえば突然の大津波が襲ってきた場合には、沿岸部に住む人々は自分の周辺の幼い子供や高齢者、病人などを助けることなく、とにかくひとりで高台を目指して逃げろというルールが起動する。老若男女誰であろうと、とにかく自分だけが助かることを考えて各自で同じ高台へ逃げるのである。

 非情にみえるだろうが、人々が助け合うことで時間をとられているうちにも津波は高速で押し寄せ、多くの被害者を出すのである。自分が助かることだけに各人が専心して、1秒でも早く高い所に逃げた方が結果的に多くの人が助かって、あとで家族らと再会できる。昔から津波の被害を受けてきた東北沿岸部の住人たちが自らの経験に基づいて獲得した知恵であり、「津波てんでんこ」という。これも先ほど述べたトリアージの一例である。



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