ちくま学芸文庫

いつでも酒が買えた江戸の町
飯野亮一著『晩酌の誕生』より

日本人の家飲みの歴史を初めて明らかにした飯野亮一先生の最新刊『晩酌の誕生』より、江戸の酒屋事情をご紹介します!

 多くの人が集まり、消費生活が便利になった江戸の市中には、酒が出回っていた。荻生徂徠は、上記の文章に続けて、「酒屋に樽拾い・御用というものありて、下々酒をととのえる事自由なる故、寒気をふせぐために調えて呑む」といっている。「酒屋に樽拾い」とは、空き樽や貸し徳利を集めて歩く酒屋の丁稚のことで、

 〇「はつ雪や是も人の子樽拾ひ 江戸沾徳」(俳諧五雑俎 享保十年)

などと詠まれている。享保のころには、こうした樽拾いの少年が酒屋で働いていて、山崎北華の「市中の弁」にも、「酒は烏の鳴くしのゝめより、後夜過るまで御用御用の小でつち有」とある。夜半過ぎまで、とあるのは誇張と思えるが、酒屋の丁稚が、得意先の家々を廻って酒の注文を受けて配達し、空いた酒樽や貸徳利を回収していた。酒飲みにとっては便利な存在で、『教草女房形気』二十一編(万延二年)には、長屋の中を廻って貸徳利を回収している「酒屋の御用」が描かれている。

 

 

 こうした丁稚が働いている酒屋の数は、寛延三年(一七五〇)頃に「凡そ二〇〇〇軒余り」にのぼっていた(『正宝事録』)。延享四年(一七四七)の江戸の町数は「千六百七拾八町」であったという(『壬申掌記』文化八年)。単純計算すると各町に一軒以上の酒屋があったことになり、当時の江戸の人口は一〇〇万人位なので、五〇〇人に一軒の割合で酒屋が存在していたことになる。

 酒屋では酒の升売りをしていて、

 〇「暮方は皆小半の買い手なり」(住吉みやげ宝永五年・一七〇八)

で、夕方、職人の女房などが小銭を持って酒を買いに行っている(『出謗題無智哉論』初編文化元年)。小半(こなから)とは、小(こ)も半(なから)も半分の意で、半分の半分、つまり四分の一のことをいったが、一般的には酒や米の一升の四分の一、すなわち二合五勺を表す言葉として使われていた。その日暮らしの多い江戸っ子は、その日に飲む量の晩酌の酒を買っていたのである。しかも酒屋は、

 ○「四つ前に寝ると酒屋は叱られる」(万句合 天明三年)

ので、夜遅くまで営業していた。四つ(午後十時頃)は、前述したように木戸が閉じる時刻である。それでも閉店後に叩き起こされていて、

 ○「寐ぬ声でもう寐やしたと酒屋言い」(万句合 明和五年)

 ○「銭で戸を叩いて酒屋起こすなり」(万句合 安永五年)

と夜もゆっくり寝ていられなかった。

 
 

これなしには一日が終わらない
はじめて明かされる家飲みの歴史

 

 

 

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