ちくま学芸文庫

「わたしのもの」がゆらぐ2つの出来事
『所有と分配の人類学』はじめに

「わたしのもの」と「誰かのもの」、この2つのスキマから社会を捉え返した『所有と分配の人類学』が学芸文庫に収録されました。ここでは「はじめに」を掲載しますので、ご覧くださいませ。

「所有」という問いを考えはじめたのは、ふたつのささいな出来事がきっかけだった。
 最初にエチオピアの村に入ったとき、私は村の大通りに面した長屋を間借りして生活をはじめた。あるとき、長屋の大家が古ぼけたテープレコーダーをもってきた。私の部屋と大家の部屋とは裏の物置のようなところでつながっており、彼はいつもふらりと私の部屋にやってきた。
 大家はカセットを入れる部分がむき出しになった壊れかけのテープレコーダーを机の上におくと、「日本の音楽でも聴いたらいい」と言う。急にどうしたのかと、いぶかしく思っていると、彼は机の上にあった私の短波ラジオを手にとり、「小さくて、いいラジオだよな」と言って、そのまま何やらつぶやきながら自分の部屋にもっていってしまった。
 一瞬、何が起きたのかわからなかった。たしかに彼は「貸してくれ」とも、「ちょっと聴かせてくれ」とも言わずに、私のラジオを自分の部屋にもちかえった。テープレコーダーを代わりにもってきてくれたのだから、と自分を納得させようとしたが、彼の行動への違和感をどうしても拭い去ることができなかった。
 そして、その後、彼がそのラジオを自分の仕事場であるコーヒー農園にもっていったことを知って、さらに違和感は大きくなった。せめて自分がいるこの長屋のなかで聴くのならいい。それが私の目の届かない場所にもっていくとはどういうことだ。ほとんど怒りに近い感情を覚えた。「わたしのもの」なのだから、私の許可を得て使うのが当然だ。そんな気持ちが渦巻いていた。
 よっぽど大音量で聴きつづけたのか、結局、ラジオは二、三日で電池切れになってもどってきた。私はすぐにラジオを自分のザックのなかにしまいこんだ。このあと、しだいに大家との関係がぎくしゃくしはじめた。彼は、ことあるごとに私がケチだと不平をもらしはじめた。やがて「貧乏外人!」と罵られるまでになった。
「わたしのもの」がまるで私のものではないかのように扱われてしまう。「わたしのもの」をめぐる感覚が、エチオピア人と私とでは違うのだろうか。もしかしたら、自分の認識がおかしいのかもしれない。ひとり悩む日々がつづいた。
 日本でも似たような経験をしていた。卒論研究で訪れた沖縄県・八重山地方の黒島とい
う島でのことだ。
 あるとき、島で敬老会が催された。私は民宿からもたされた弁当を手に、中年の男性たちのテーブルに加わった。昼食の時間になっても、男たちはテーブルにそれぞれもってきた弁当をひろげたまま、誰も手をつけようとしない。まわりを見渡すと、老人たちは、配られた折詰を食べはじめている。なぜ、みんな手をつけないのだろうか。私は朝から何も食べておらず、お腹がすいてたまらなかった。ついにもってきた弁当を手にとり、ひとりで食べはじめた。テーブルを囲む男たちの驚いたような、きまり悪そうな視線を感じたものの、いったん取り出した箸をおくわけにはいかなかった。
 そして、私が自分の弁当をひとりでほとんど平らげてしまったころ、男たちはもってきた弁当や寿司などを中央に寄せあい、みんなでつまみあうようにして食べはじめた。「おいしそうな弁当、食ってたな」。ひとりの男性の皮肉まじりの言葉で、やっと気がついた。
 自分の弁当を自分だけで食べてはいけない。「わたしのもの」を私が独り占めしてはいけない。自分があたりまえだと思っていた感覚が島ではまったく逸脱した行為だったことにショックを受けた。ずいぶんあとになってからも「おまえ、あのとき弁当ひとりで食ってたやつだろ」と言われて恥ずかしい思いをした。いまでもあのときのことを思い出すと、みぞおちのあたりにほろ苦いものがひろがる。
 同じ日本という国に生きていながら、私と黒島の人びととでは「所有」の感覚が違うのではないか。人口200人あまりの小さな南の島に、独特の「所有観」が残っている。そんなことを想像しながら、黒島の牧場に住み込んで働いていた。
 エチオピアと沖縄で遭遇したふたつの出来事。それは、いずれも「わたしのもの」という感覚がゆらいでしまう経験だった。これまでのエチオピアの農村部での調査は、ある意味、あのときの「違和感」や「ずれ」に自分なりに答えを出そうと考えつづけてきた過程でもあった。

* * *

 エチオピアでの調査は、手探りからはじまった。最初は、放牧されている牛のあとをついてまわって数をかぞえたり、村の土地利用図をつくるためにGPSを片手に藪のなかにかきわけていったり、そんな調査で月日が流れた。私と彼らとのあいだで「所有」についての何かが違うことは強く感じながらも、それがいったい何なのか、うまく理解することができなかった。どうやってその問いの糸口をみつければいいのか、見当もつかなかった。「所有」というテーマの漠然としたひろがりに、ただ時間だけが過ぎていった。
 それでも、たびたび日本とエチオピアを往復するうちに、私自身がしだいにデータをとるための「調査」という型から解き放たれていくようになった。村人とともに日々を過ごす。そんな時間が積み重なっていくと、何かをこちらの尺度から「調べる」のではなく、人びとの暮らしのささやかな営みに目が向きはじめる。畑を耕す牛、畑からとれる穀物、その穀物を入れる袋、庭の果物や野菜、台所道具、店にならぶ商品。気がついてみれば、村の生活のありとあらゆるモノが、この「所有」という問いとつながっていた。

 朝、目が覚めると、家のまわりでは、女性たちのこんな声が響きわたる。
「ちょっと火はある? もらっていくわよ」
「昨日もっていったうちのおたまはどこなの? 使うから、返してよ」
「お母さん、この麻袋は誰のものなの? 使っていいかしら?」
 昼間、ひとり家にいると、こっそりと隣のお母さんが台所に入ってくる。
「ちょっと、お皿、もっていくわね」
 屋敷地のなかのモノは、次つぎに女性たちの手にわたる。そして、次の朝には、「うちの皿がないわよ! 黙ってもっていったでしょう? 返してよ!」と、またモノがもとの場所にもどっていく。


 人びとは、それぞれのモノを誰かのものとして位置づけあい、よくそのモノの所在をめぐって言い争っていた。モノが誰かのものとされたり、ほかの誰かの手に渡ったりする。このことを人びとはどう考え、いかに行動しているのか。身近な場所で展開するミクロな行為の現場に目を向けることで、しだいに所有という問いの糸口がみえてきた。ただし、それは「所有感覚が異なる」といった最初の直感とは、まるで違うものになりそうだ。ここでは、「所有」を成り立たせているものの違い、とだけいっておこう。

* * *

 この「わたしのもの」という問いは、いまの世界を見渡してみると、重大な問題につながっている。2006年12月、国連大学の世界開発経済研究所がこんな調査結果を発表した。

「世界の成人人口の2%の富裕層が、世界の富の5割以上を保有している。〔中略〕2000年現在、成人人口の1%の豊かな者で、世界の富の40%を保有し、10%ですべての富の85%を保有している。逆に、成人人口の貧しい半数で、世界の富の1%を分けあっている」。

 長い歴史のなかで、ひとは「わたしのもの」という寓話をくり返し語りつづけてきた。この土地は「われわれのもの」、川から向こうは「彼らのもの」、彼らを打ち負かせば、それは自分たちのものになる。最初は誰のものでもなかった土地を、そしてそこから生み出される富を「誰かのもの」にしてきた。そしていま、みんなが自分のものだといって手にしているものを目のあたりにして、愕然としている。なぜ世界の1割の人間で全世界の8割を超える富を独占するようになったのか。どうしてそれが正当なものとして認められているのか。誰にもわからなくなっている。
「所有」が問題となるのは、土地や資本のようなわかりやすい「富」だけではない。とくに科学技術の発達やグローバル化の進展は、これまでけっして問題にならなかった「所有」をめぐる問いをわれわれに突きつけている。それは、知的財産であり、身体あるいは命の所有という問いである。
 デジタル化された音楽や映像は、インターネット上で簡単にコピーされ、世界中に拡散する。著作者の所有権はどこまで認められるのか。そもそも、それをどれほど強制することができるのか。エイズ治療薬を開発した製薬会社は、その薬の生み出す利益と製造方法への排他的な権利をどの程度まで認められるべきなのか。安価なコピー薬をつくることは、その権利を侵害する不法行為なのだろうか。自分の臓器を他人に売却したり、他者の臓器を購入したりする行為は、倫理的に認められるのか。国内では禁止されている臓器の売買を、日本人が海外で行なっている現実にどう向きあったらよいのか。
 現在、われわれは、こうしたさまざまな「所有」をめぐる問いを考えなければならない時代に生きている。なかでも、「わたしのもの」を最大限に個人に帰属するものとして扱う「私的所有」という原則については、学問の垣根を越えた大きな問いになっている。「わたし」は、「わたしのもの」に対する排他的な決定権をもつ。この私的所有権は、現在、多くの社会で基本的な自由を守る権利として受け入れられている。ただ、私的所有という概念が、さまざまな新しい「所有」をめぐる問いに対して、どれほど有効で、そして、はたして正当なのか、答えはでていない。
「わたしのもの」をめぐる問いかけは、社会のあり方そのものを考え直す問いでもある。「わたしのもの」は、いったい誰のものなのだろうか? それは、どこまで「わたしのもの」でありうるのか?
 この小著で、あまり壮大なテーマに真っ向から挑むことはできない。いま私にできるのは、エチオピアのひとつの村における「富の所有と分配」という問いを考えていくことだけだ。ただ、それを通して、「誰かのもの」にしてしまう「所有」という装置が現実の場面でどのように生成しているのか、どういう手順をへてそれが「誰かのもの」になってきたのか、その過程をつぶさに描いていきたいと思っている。
 エチオピア農村社会の民族誌という小さな針の穴から、われわれの世界の「所有」のあり方を見通してみる。それは、「私的所有」という命題へのささやかな挑戦でもある。
 

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