ちくま新書

日本人の、今の働き方の起源はどこに?
『仕事と江戸時代――武士・町人・百姓はどう働いたか』はじめに より

常に変化を求められつつ、変わらないものもあると感じる私たちの働き方。その源流は、近代化を果たした明治にあるとみる向きもあるが、社会的・経済的な急激な変化を背景に、働き方も大きく変わった江戸時代にあると本書では考える。あらゆる階層の働き方を掘り起こしつつ、仕事を軸に江戸時代を捉えなおす。

「働き方」は時代により変化する
 今、人々の働き方が大きく変化しつつある。何年も前から、インターネット環境の普及によりリモートワークを行える条件は整っていた。しかし、仕事は職場に出勤してするものだという意識が根強く、なかなか浸透しないでいたのが、コロナ禍という外的要因に押されることによって、一気に、ごく普通の働き方になった。また、働く人々の属性も、従来は、正規雇用の職員・従業員、パート・アルバイト、自営業といった3つの大きな括りで捉えることができていたのが、全くそうではなくなってきている。会社員が休日に動画配信で広告収入を得る副業をするとか、趣味で製作しているアクセサリーをネットサイトで販売するとか、収入を得るための仕事が一つではない人も増えた。職種における男女の垣根も低くなったといえる。男性の領域と見なされていたために就職しにくかった分野にも、女性が進出している。そうしたこともあって、特に若い世代の仕事観は、一世代前とはおおいに違っているのだろうと感じることも多い。
 歴史的にみれば、人々の働き方は絶えず変化してきた。夫が主たる稼ぎ手となり、専業主婦が子育てや家事を一手に引き受けるという家族モデルは、昭和後期から平成前期にかけては当たり前のように受け止められていたが、現在ではもはや少数派になった。専業主婦がセットになった家族モデルが標準とされたために、専業主婦という存在を前近代までも遡る伝統的なものとして見ようとする向きもあるが、実際はそうでなく、高度成長期以降に広がった家族形態である。第一次産業従事者が減少し、いわゆるサラリーマン世帯が増加したからこそ、子育てと家事労働のみを妻が担当するという生活を多くの人が選択するようになったのである。
 昭和20年代には国民の半数弱が第一次産業に従事し、農村で生活していた(現在は、就業者人口の3%にすぎない)。農村に、多数の人々の生活基盤があるという点で前近代―江戸時代とあまり変わらなかったといえる。とはいえ、昭和期の農村の生活と江戸時代の生活が同じということではない。そこには緩やかな変化があったが、高度成長期以降に日本社会が経験した産業構造の転換や都市型生活の普及などの急激な変化の比ではないだろう。
 人々の働き方の歴史的変遷を考えてみるに、日本社会独自の労働形態だとか、根底に存在する労働観といったものがあり、それが個人の意識や社会の共通認識として息づいているのでは、と思う方もいるかもしれない。いや、現代における働き方は、明治時代のいわゆる産業革命以降、資本主義化の流れのなかで形成されていった要素に強く規定されているのではないかと考える方もいるだろう。確かに、現代との直接的な関係をみるなら、近現代に形成されていった要素の影響が強い。だからといってそれ以前が、近代化の波に攫われる前の牧歌的な様相であったわけではない。
 江戸時代は、政治体制をとっても経済制度をとっても、現代とは全く異なる社会システムで動いている。しかし、その頃の働き方の具体的な事例を観察してみると、私たちが最近経験したり、聞いたことがあるような働き方の問題が認められることに気が付くに違いない。

江戸時代の「働き方」に注目する理由
 ところで、日本における「働き方」の源流をたどるなら、江戸時代よりも前の時代、古代・中世を取り上げるほうがよいのではないか、との意見もあるかもしれない。しかし、働き方という点でいうと、古代・中世はまだその多様性に乏しい時代であった。また、当時は、社会的・経済的に強い立場に立つ者が弱い立場にいる者を支配する様相―学術研究の世界では「隷属関係」とも表現されるような―が強く、労働の世界にも影響を及ぼしていた。そのため、古代・中世と現在の「働き方」を連続するものとして捉えるのは難しいと考えている。
 江戸時代になると、戦国時代の戦乱により生じていたさまざまな障壁から解放され、おおいなる社会発展がもたらされることになる。農民は戦に怯える必要がなくなり、安心して農業に打ち込めるようになった。領主側の政策と相まって、江戸時代前期には「大開発時代」と呼ばれる開発ブームが到来した。「大開発時代」には、耕地面積も人口も、それ以前の歴史的過程ではみたことのないような増加度を示す。それにともない、米・麦など生きるために必要な基本的食料を生産するだけでなく、さまざまな、生活を豊かにするための作物や、農産物を加工した商品も生産されるようになった。そうした作物・商品をより広い地域に販売するためのシステムも構築されていく。江戸時代は、水陸の遠距離輸送が発達した時代でもある。商品の輸送や販売網の規模が大きくなれば、従来の商家で扱える範疇ではなくなり、問屋・仲買・小売といった商人の分業体制が整えられた。経営規模が拡大するにつれて、商家では、家族労働に加えて奉公人を雇用して諸業務を分担させた。商品の仕入れから販売までにさまざまな形態の働き手が必要となったわけである。こうした点をとっても、中世の働き方とは大きく異なっている。
 江戸時代には、生活水準の向上にともないさまざまなサービス業も発達した。富裕階層は、豊かな生活を享受できるように奉公人を召し抱えて身の回りで奉仕させるようになった。もちろん、戦国時代までの上流階級にも召使はいたが、彼らは社会的支配関係に置かれた存在だった。社会システムが大きく転換するにともない、江戸時代にはその関係がある程度リセットされることになる。中世まで社会の各層に存在した従属関係が薄まったことが、江戸時代における労働の多様化につながっていった。
 そして、働き方を変えたもう一つの大きな要因が、貨幣の普及である。中世にも貨幣はあったが、中国から輸入された銭が主に使用されており、鎌倉幕府や室町幕府が価値を保証したわけでもないため、商取引における信用面での不安はつきまとった。江戸時代には貨幣制度が整備されたことにより、大口取引を行う商人ばかりでなく、労働を提供する個々の町人・百姓にとっても対価として貨幣を受け取ることに対する不安が解消した。
 こうした、中世から近世にかけての変化については、第一章で詳しく触れる。働き方において、江戸時代に歴史的画期を見出せるからこそ、本書ではそれに注目するのである。

歴史学の視点、経済学の視点
 江戸時代の人々の働き方、とりわけ雇用労働に関するトピックは、学術的なレベルでいえば歴史学(日本近世史)と、経済学(経営史・労働史)の分野で取り上げられてきた。本書は前者、歴史学の見方に沿って構成している。
 歴史学の分野では、江戸時代のことなら何でも対象となるので、武士についても町人・百姓についても、あらゆる角度で分析されてきた。また、現在には職業として残っていない存在とか、物乞いで暮らすような社会的弱者の人々まで掬い上げて考えていこうとする動向もある。江戸時代は、そうした諸存在が独特な形で複合し合っている、パッチワーク的社会であったことが歴史学の成果として明らかになっている。その成果と蓄積に拠りながら、江戸時代の「働き方」について総合的に考えてみたい。なお、「働き方」を切り口にしてみると、江戸時代の身分制社会としての特徴や社会の発展形態の特徴がよく分かるのではないかと思う。本書は通史というわけではないが、読者は、江戸時代とはこのような時代なのだというイメージを摑んでいただけるだろう。
 一方、経済学(経営史・労働史)分野においては、「日本型企業の経営形態」「日本型の雇用慣行」の沿革を解明するという命題に基づく研究が行われており、商家の組織や経営方式、奉公人制度などが分析対象となってきた。特に、京都・近江・伊勢などの上方に統括部門を置いていた大商人を扱う研究がまとまったものとしてある。近代の会社制度への移行過程にも強い関心が寄せられている。また、労働史の分野には、武家奉公人や百姓の雇用形態の変化に注目する研究がある。それらでは、江戸時代前期には「譜代下人」と呼ばれる、隷属的な状態に置かれた農民が広範に存在していたのが、次第に減少して「年季売奉公」または「質物奉公」と呼ばれる方式(労働の開始に先立って、本人以外の人物が奉公先から金を受け取り、その金額分を何年かの労働をもって償却させる)に変化する点や、年季奉公人の年季(契約年数)が次第に長年季から短年季へ短縮していく傾向等が指摘されている。
 経済学分野の研究は、経済理論に基づき、社会の発展段階と労働形態の変化を結び付けて解明しようとしている分、明快さがある。しかし、現代の私たちの身近な働き方にひきつけては考えにくいのではないか。そのため本書では、経済学的な分析からある程度、距離を置いている点をお断りしておきたい。現在、労働者のひとりとして自分がおり、その過去の形として江戸時代の働く人々がいるという感覚で、当時を知ることを重視したい。

武士も町人も百姓も、トータルでみてわかることがある
 江戸時代というと、武士の時代と捉える方も多いだろう。当時の武士は、知行や蔵米などの俸禄を受け取って、幕府や藩で政治的職務を遂行していた。俸禄は労働報酬とはいえず、身分に付随する特権であるという特殊性はあるものの、武士は、公務員の前段階的な仕事をしていた。武士の本分は兵として戦に出ることであったが、実質的に、行政の担当者としての役割が第一義となっていたのである。前述の経済学分野では、武士の活動を雇用労働として扱っていないが、武士を含め、当時の人々の働き方全体を見渡してみることが重要だと思われるので、本書では武士層の「働き方」も取り上げている。
 本書は、全一四章構成となっている。対象ごとに章を分け、江戸時代の人々の「働き方」あれこれを探索する形になっている。第一章は総論としての位置づけである。第二章〜第六章は武士、第七章〜第九章は町人、第一二章〜第一四章は百姓の働き方を扱う。ほか、第一〇章は働く女性に特化した内容、第一一章は雇用労働者をめぐる法制度に注目した内容になっている。各章で取り上げる人々の働き方はおおいに絡み合っている。その絡み合いにこそ江戸時代社会の実相が見えるので、そこをぜひ読み取って欲しい。
 

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