『女は見えない』は、すばるクリティーク賞を受賞した西村紗知の、最初の批評集である。主な批評対象は、前の章から順に、七海なな、前田敦子、Dr.ハインリッヒ、丸サ進行、愛子内親王だ。タイトルのとおり、彼女らは――人物ではなくコード進行も混ざっているが――「見えない女」たちである。気をつけたいのは、西村が、彼女らがジェンダー的に抑圧された存在であると指摘したり、その構造を糾弾したりしているわけではない、ということだ。そうした誤解を避けるためには、「見えない」を比喩ではなく、字義通りに捉えなければならない。一方で、上述のような「誤解」をしそうになった人にとってこそ、本書はいっそう刺激的であるようにも思う。
先に挙げた批評対象のなかで、評者が本書を読む前から知っていたのは、前田敦子、丸サ進行、愛子内親王である。概念である「丸サ進行」のことはいったん脇に置くとして、他の二人は、ゼロ年代以降を日本で生きてきた者の多くが知るところだろう。けれども、その知名度に比して、彼女らの挙動をつぶさに記憶している者の数は、思いのほか少ないのかもしれない。
たしかに、評者がAKB48在籍中の前田について覚えている事柄は、いみじくも西村が本書で指摘しているとおり、「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」だけだった。当時、前田はあれほど頻繁にテレビに映っていたグループのセンターにいたにもかかわらず、だ。西村は、先の名言によって前田がはじめて個として「現前」したこと、秋元康への批判が困難だった当時の「AKB論壇」の空気、そして前田のAKB48脱退後にグループも他のメンバーも勢いを失った経緯、等々の諸点を踏まえ、前田が「システム」でもあり「実存」でもあったという核心へと接近する。グループ内での勝利条件から禁則事項に至るまでの全てをファンと契約する「父」としてのプロデューサー・秋元康と、代替可能な個=「子」としてのメンバーたち。前田は、一人の個でありつつ、「父」(が構築したシステム)のネガの側面を引き受けることで、AKBシステムを消費するファンの後ろめたさを贖う「母」としての位置にあった。だからこそ、彼女その人は「見えない」のだと、西村は分析する(ちなみに、指原莉乃とは何だったのか、についても本書では興味深い回答が与えられている)。
こうした脱-パラドックス化の機制の極致として、天皇制があるとすれば、本書の批評に通底するのが貨幣と消費であることも、自ずから理解されよう。代替可能性と代替不可能性の両立を可能にするメディアとして、現代社会にあまねく存在するものこそが、貨幣だからだ。そして、配信者に投げ銭をする(買う)ことで配信者を広報する(売る)動画配信のプラットフォームのように、売手と買手が頻繁に入れ替わる昨今の「推し活」のカルチャーでは、人々は代替可能性でしか自らの代替不可能性を担保できない貨幣的なるものへといっそう近接してゆく。
もっとも、西村はシステム(資本主義)の外部を直ちに志向したり、貨幣的なるものを全面的に拒絶したりはしない。丸サ進行の批評で展開される「ウェルメイド性」の分析は、そうした態度の表明として読むこともできる。ここで最初の「誤解」の話に戻るが、西村は、中心/周縁やマジョリティ/マイノリティの図式を追認して承認の政治を展開するのではなく、むしろシステム内で何がどう売買されていて、結果、どうなっているのかを見ることに、徹している。抵抗や攪乱ではなく、「見えない」者たちを「見えない」ままでいかに語り直すかという点に、彼女の批評は賭されているように見える。
以上を踏まえると、本書が「見えない女がいる」ではなく、『女は見えない』であるという点にも、何か意味があるのではないかと評者は推測する。両者は、論理的にはかなり異なる言明だからだ。西村本人も自認するように、フェミニズムとは異なる文脈で「女」というモチーフにたどり着いた著者の放つ本書が、書店のどの棚に並び、いかなるジャンルの批評として消費されるのか。書店に確かめに行こうと思う。
愛が消費と常に癒着する。そのシステムの中で、人はよく生きることができるのか。
すばるクリティーク賞を受賞した新鋭、西村紗知さんのデビュー批評集を、『「死にたい」とつぶやく』の中森弘樹さんに書評していただきました。
座間9人殺害事件に「女性を金銭に変換する仕組み」を見出した中森さんは、本書をどのように読まれたのでしょうか。PR誌「ちくま」より転載します。