ちくま新書

妻の転勤に同行するために休職した政治記者を苦しめた、「男らしさ」の呪い
『妻に稼がれる夫のジレンマ――共働き夫婦の性別役割意識をめぐって』はじめに

2017年、働き盛りの政治記者だった著者の小西一禎さんは、妻のアメリカ転勤に同行するために大手全国メディアを休職しました。その時に小西さんを襲ったのは、ニューヨークへの憧れを打ち消すほどの焦りや不安だったと言います。新天地で自分自身と向き合って見えてきた、男らしさの呪縛とは――。
『妻に稼がれる夫のジレンマ――共働き夫婦の性別役割意識をめぐって』より、「はじめに」を公開します。

†「男は仕事」の呪縛
 私が、こうした不安に駆られたのは、「男は仕事、女は仕事と家事・育児」とする硬直的かつ固定的な性別役割を巡る観念に、完全に囚われていたためだと思う。
 いわゆる「日本的雇用慣行」の世界には、「男は仕事」という価値観が今も跋扈している。男性が、組織に属したまま給付金も支給される育休とはまったく異なり、数年単位で日本を離れてキャリアを中断し、収入が絶たれることは、日本的雇用慣行との親和性に欠ける。日本以外で生活した経験がなかった私にとっても、受け入れがたいことだった。
「男は仕事」という価値観に支配された社会では、社会的地位の獲得や成功を目指す競争から離脱し、稼ぎ手の役割を果たさない男性は「男から降りた者」とみなされる。数年にわたるキャリアの中断は、まさしく稼ぐ力=稼得能力を喪失することを意味する。メインの稼ぎ手として、家族を扶養していた身から、子どもと共に配偶者に扶養される立場になる。長年働いてきた自分に対する自信の喪失であり、新卒以来、日々の仕事に向き合い続けた結果、経歴や経験を積み重ねてきたというキャリア意識の喪失でもある。
 渡米前の時点でも、これらについて頭では理解していたつもりだった。ただ、実際にその立場に置かれてみると、当たり前のように働いていた自分から、働いていない身に転じた自分が何者なのかが分からなくなってきた。いわゆる「アイデンティティー・クライシス」、若者に多くみられる自己同一性の喪失が、中年に差し掛かった四五歳にも訪れたのだった。
 そして、妻は念願の海外勤務を叶え、バリバリ働く一方、周囲から「妻よりも下に見られているのではないか」との猜疑心のような感情も時折、脳内をよぎるようにもなった。在米中、幾度も苦しい瞬間に襲われた。
 ジェンダー平等の考え方が少しずつ浸透し始めていたとはいえ、男性優位社会が続く日本で暮らし、働いていた私にとって、キャリア中断がもたらすアイデンティティーの喪失は、ごく自然の流れだったと思う。長時間労働の激務に追われ、心身ともにタフさが求められる永田町の政治記者には、常に「マッチョ」であることが求められていた(と自覚している)。帰宅は深夜。週末も仕事や出張が重なり、基本的に家事や育児は時短勤務の妻に任せてきた。主たる稼ぎ手として、長時間労働と引き換えに「家のこと」を免除されるのを当然視していた。
 私が国外でキャリアを中断する間、海外駐在員となった妻は対照的に着々とキャリアを重ね、帰国後は駐在経験を生かして「出世」することになる。日本で働いていた当時は、業界も職種もまったく異なる上、私のほうが年収は上回っており、妻をライバルと感じたことは皆無だった。ところが、渡米後は、次第に焦りや不満の度合いをエスカレートさせていた。恥ずかしい話ではあるが、酔った勢いで、八つ当たりをしたような記憶もうっすらだが残っている。

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