ちくま新書

「正しく診断を得る」ための最良の一冊

2023年12月に刊行された、ちくま新書『レビー小体型認知症とは何かーー患者と医者が語りつくしてわかったこと』(樋口直美・内門大丈著)は、レビー小体型認知症の当事者とその専門医の対談という画期的な一冊です。様々な方面で話題となっているこの本に、ルポライターの鈴木大介さんが書評を寄せてくださいました。ご自身も、脳梗塞の後遺症としての高次脳機能障害という認知機能の障害を抱える当事者である立場から、この本を「あらゆる高齢者に接するあらゆる職域の人々」に絶対に読んでほしいと思われる理由を書いてくださいました。「正しく診断を得る」ことがどれだけ当事者にとって切実なことか、ぜひ耳を傾けてください。

■悲劇の未然回避のために
 本書は、レビー小体病の当事者である樋口直美と、認知症専門医として多くの当事者と症例に接してきた内門大丈(ひろたけ)医師による対話の記録となる。読後に強く感じたのは、介護・福祉・医療等、領域を超えて「あらゆる高齢者に接するあらゆる職域の人々」が、本書に一度は目を通してほしいという切望、そして本書がそうした高齢者を支援する現場の読者にとって「安心して読める一冊」でもあることも、濃く印象に残った。
 まず、必読を切望する理由、それは「悲劇」を未然に回避するためだ。
 レビー小体病(レビー小体型認知症)は、数ある認知症状を起こす原因疾患のうち、アルツハイマー病に次ぐとあって、決してレアな病気ではない。にもかかわらず、当事者や家族は、いまだ悲劇の際にある。
 悲劇の主因となるのが、まず医療者をはじめとするあらゆる現場が、あまりにこの病気の症状や当事者像を正しく知っていないことから、当事者の未診断や誤診につながってしまうこと。それによって、適切な時期に適切な治療を受けられなかったり、重篤な副作用のある誤った医療を受けてしまったりすることだ。例えばレビー小体病の症状のほとんどはパーキンソン病と共通しているが、レビー小体病の当事者に対してパーキンソン病に標準的な投薬を高容量で行ってしまうと、幻視や妄想などの精神症状が激しく悪化するといった、強い副作用が出る(レビー小体病の症状には薬剤過敏性がある)。
 また、ここまで敢えて本書のタイトルにもあるレビー小体「型認知症」ではなくレビー小体「病」としたのは、この病気がレビー小体というたんぱく質が脳神経細胞の中に蓄積することで起きる病気で、それが脳の「どの部位にどの程度蓄積」するかによって、表出する症状が非常に多様であるから。あくまで認知症もその症状のひとつであって、中には認知症状を伴わないケースもあるからだ(本文p16-17表①参照)。さらにこれまで診断基準とされてきた症状の多くが、当事者によっては表に出てこない症状であったり、発症初期には見られない症状だったりすることから、診断に至らないケースも多かった。
 本書がまず突きつけるのは、こうしたことがあまりに現場に知られてこなかった中、これまで多くの当事者が「認知症状が出ていない時点でレビー小体病ではない」「それはレビー小体型認知症の症状ではない」といった診断告知をされ、「だったら自分が感じているこの症状はいったい何なのだろうか?」という耐え難い不安の中で適切な医療につながることなく過ごしてきた事実だ。
 これを悲劇と言わずして、なんと言おう。
 樋口直美もまた、30代の若さで症状を自覚し始めながらも、初めはレビー小体病に最も多くつく誤診であるうつ病診断を受け、「これがうつ病?」との強い疑問を抱えながらも5年以上にわたって誤った投薬と激しい副作用に苦しみ続けた過去をもつ。診断を受けた後には自身に起きた悲劇が繰り返されてほしくないという一念から『わたしの脳で起こったこと』(ブックマン社・2015年、ちくま文庫・2022年)、『誤作動する脳』(医学書院・2020年)など当事者発信の執筆活動をしてきたが、診断後であるにもかかわらず医療者や専門職から「あなたのようにたくさん話す認知症などいない」などと存在そのものの否定を投げかけられたことがあったという。
 などということを書くと、医療や支援の現場に携わる者の多くが、思わず身構えてしまうかもしれない。過去に自分がやってしまったかもしれない誤診や、やってしまったかもしれない誤った支援を、直視することになるのではないか。それは、その職責に真摯な者ほど、強い危惧だろう。

■専門職が安心して読める
 だが、有難いことにそれは杞憂だ。冒頭に「安心して読める」としたのは、まずもって医療過誤の被害者と言っても過言でない樋口の語り口に、怨嗟の色が全くないからだ。本書は樋口の過去の経験をして「こんなにもつらかった」を振り返って語り、内門が応えるものではない。
 当事者である樋口は、自身の体験や発症後の樋口が出版や講演活動の中で接した多くの当事者の訴えを素材に、一層レビー小体病を深く知りたいという探求心で内門に問いかける。対する臨床家である内門はそんな樋口の問いに応えつつも、当事者がその症状をどのように感じているのかについての探求心で樋口に返す。淡々としたやり取りの底に流れるのは、あくまで双方の探求心の応酬だ。
 読むにつれ医療職支援職が感じるのは、後悔や訓戒ではなく、むしろこれまで支援が困難に感じたケースや理解の難しかったケースにも、そして「どこにつなげるか」で悩んだケースにも、やっと明瞭なヒントを得たという安堵。そして今後自身の職域で一層当事者の力になれそうだという予感だろう。それはやはり、職責に真摯な者ほど、救いに感じるはずだ。
 また、「安心して読める」の理由には、樋口が決して単なる当事者ではないこともある。樋口は当事者であると同時に、他の多くの当事者に接してきた一臨床家。そして論文なども含めてこの病気についての知識を学んできた専門家と言ってよい立場にある稀有な存在だ。そんな樋口のナラティブは、当事者語りでありつつ専門職である内門と同じ言語体系で語られ、内門との対話はあくまで「お互い学ぶもの、お互い教えるもの」としてのフラットな立場で進む。
 一方、専門職のど真ん中である内門もまた、レビー小体病によってそれぞれの症状がどのように起こされるのかといった医学的な機序については最小限の語りにとどめたうえで、レビー小体病に「ごく初期から起きやすい症状」をシンプルにわかりやすく提示したり、これまで診断基準となってきた症状(前述のように初期には出ないものも多い)の差異や比較を非常に平易に語る。
 これは医療的な専門知に自信のない介護職や福祉職にとってもわかりやすく、苦しむ当事者を初期から適切な医療支援につなげる期待が持てるだろう。しかも内門は現状や過去の専門職に対する批判や押しつけではなく、理想論にも走らず、あくまで現状の制度的な限界や医療・介護現場における人的時間的リソースをベースにした支援論を語ってくれるから、やはり「安心して読める」。
 本書内で内門は、レビー小体の蓄積は老化によっても起きることであり、今後の超高齢化社会の中でレビー小体病は増えると言及。65歳以上で原因不明の体調不良があった場合は、たとえ認知機能に問題がなくてもレビー小体病の可能性を考えて、経過を含めて見ていく方がいいと語る。
 かつては「進行が速い」とされてきたレビー小体病だが、実際には適切な投薬で症状を緩和したりストレスマネジメントを試みたりしていくなかで、かなりの長期間QOLを保って人生を送ることのできる病気だ。であれば何よりも早期に適切な医療につながることが肝要なわけだが、本書は「レビー小体病が疑わしいと、気づく視点」を立ち上げる初めてにして最良の一冊となるに違いない。

■同じ脳機能障害の当事者として
 と、ここまでは一般読者視線からみた、本書の推薦。ここからは、樋口と同様に「当事者としての立場」から本書を推薦したい。
 評者は8年前に脳梗塞を発症し、後遺症として高次脳機能障害という認知機能の障害を抱える当事者だ。脳梗塞の虚血によってダメージを受けた部位が近いためか、樋口の訴えるいくつかの症状も同様に抱えており、当事者として医療者との対話を書籍にしている点でも勝手に戦友感・連帯感を持っている。
 そんな立場から強調したいのは、レビー小体病であれ高次脳機能障害であれ、発達障害やその他の精神疾患であれ、脳の機能障害という見えづらい障害を抱える者にとって共通する最大の不利益とは何かということ。断言したい。それは、未診断=「何かおかしい、苦しいという訴えを無視されてしまうこと」だ。
 それは単に理不尽だというだけではない。問題は、そうした対応によって不安やストレスを感じることで「本来やれることまでできなくなってしまう」=症状が重くなるというとてつもない不利益が、当事者にはおきてしまうことだ。
 これは、疾患名を超えて脳機能に不自由を抱える者に共通する特性だろう。
 樋口も本文中で「敏感な脳と言うのか、心の状態によって振れ幅が大きい」「精神状態が病状と直結する」などと語っているが、評者自身も、不安や焦りを感じたとたん、唐突に頭に濃霧が下りてきたように感じ、頭を真綿で締め付けられるように感じ、それまで問題なくできていたはずの作業が出来なくなるという症状を今も抱えている。
 文筆業であるにもかかわらず、文章を読んでも内容が頭に入って来ない、人の言葉も意味の理解ができない。さっきまでできていた他愛ない作業が、不安が胸に立ち上がったとたんに、いきなり、まるっきりできなくなってしまう。
 これは健常者であった頃には想像もしなかった劇的な症状だが、なんとしても知っていただきたいのは「診断をもらえない」「何かおかしいという訴えを取り合ってもらえない」「自身の違和感に理由がつかない」ことこそが、まさにその不安の最大要因になるということなのだ。
 自身に障害があると告知されて、安堵する。そんな心理があるなんて、やはり健常時には想像もつかなかったが、これは高次脳機能障害の当事者からも発達特性のある当事者からも頻繁に聞かれる言葉だし、レビー小体病についてもやはり同様だろう。
 そんな中、本書の見どころは、樋口のリアリティあるナラティブだけでなく、それを聴く内門の「当事者の訴えをないものにしたくない」「当事者を知りたい」という姿勢にある。樋口の主症状である幻視について「美しい蝶の幻視を見るコツとか、ないんでしょうか?」(本文p128)と真剣に聴くくだりは、白眉だ。評者がその場にいたら、きっと泣いている。周囲の人間から、それも医療の専門職からすら、苦しさをないこと扱いされることに心底うんざりしている当事者からすれば、その前のめりが何よりもありがたいのだ。
 我々のスタート地点は、とにかく訴えを真剣に取り合ってもらうところから、診断がつくことから。まずは理解不能で意味不明な自身の症状や違和感の原因がわかり、そこから自身の症状理解を深め、安心を得ると同時に不自由の緩和に自発的な取り組みをしていく。そこがすべてのスタート地点だ。
 自身の抱える高次脳機能障害を社会に発信する際、とにかく未診断無支援という悲劇だけは勘弁してほしいと切実に訴え続けているが、レビー小体病を取り巻く状況は一層深刻に違いない。
 なぜなら高次脳機能障害はあくまで脳外傷や脳卒中という明確な原疾患があって発症する障害だが、レビー小体病は徐々に脳神経細胞に蓄積するたんぱく質が原因という、ゆっくりうっすら症状が現れるところから始まる病気だから。こうなると「まずは誤診や未診断からスタートする」と言っても過言ではない。樋口も本文中で「レビー小体型認知症を疑って病院に行っても、ほとんどの方が、最初は『違う』と言われている」(本文p78)と語る。
 だが、繰り返すが未診断は単に理不尽なのでなく、当事者にとってその存在を否定するような行為であり、かつそこに伴う不安は「症状を劇的に悪化させる」という健常者には想像もつかない実害を伴う。
 レビー小体病の当事者にとっても全てのスタート地点である「正しく診断を得る」ために、重ねて本書は最良の一冊だ。やはりあらゆる高齢者に接する専門職が、そして何か原因不明の体調不良や違和感を感じている者や、その家族が、本書を手に取ることを切望したい。