ちくま学芸文庫

人生は強いられず、ただ示される

哲学者ロバート・ノージックが人生における多様なテーマを考察した『生のなかの螺旋』(ちくま学芸文庫)が刊行されました。ノージック初の文庫化です。本書の性格と著者の全体像について、法哲学者の吉良貴之氏が解説を書かれています。またとないノージック入門となっておりますので、ぜひお読みください。

 本書『生のなかの螺旋―自己と人生のダイアローグ』は、Robert Nozick, The Examined Life: Philosophical Meditations, Simon & Schuster, 1989の全訳である。
 著者のロバート・ノージック(1938-2002年)はアメリカの哲学者であり、長らくハーバード大学で教授職を務めた。最も有名な著作は、政治哲学上のリバタリアニズム(自由至上主義)の記念碑的著作とされる『アナーキー・国家・ユートピア』(原著1974年)だろう。ほか、認識論や心の哲学、形而上学など、多岐にわたる哲学分野の著作がある。
 本書『生のなかの螺旋』は、目次を見ればわかるように、かなり雑多な、それまで分析哲学ではあまり扱われることのなかった「人生哲学」的なテーマを多く取り上げている。それぞれの章は特につながっているわけではなく、独立して読めるようになっている。本書はノージックの他の専門的な研究書と比べ、文章も一般向けに書かれている。話題も専門的な哲学だけでなく、文学や映画への言及などもあり、著者の幅広い関心を反映してさまざまな方向に広がっている。何より、本書は読者を説得することを目的とするのではなく、考えるための材料を提供することを目指しているとノージック本人も述べている。なので、哲学書だからといって身構えることなく、面白そうなところをつまみ食いしながら、引っかかったところがあればそこで自分なりの考えを深めるのに役立ててもらうのがよいだろう。
 本書の原題は「吟味された生(The Examined Life)」だが、これはソクラテスの言葉「吟味されない生は生きるに値しない」(プラトン『ソクラテスの弁明』)をもじったものである(ちなみに、哲学書のタイトルとしてはポピュラーなもので、他にも同題の本がある)。ノージックは特定の偉大な哲学者の教説を研究テーマとするタイプの哲学者ではないが、理想的な哲学者としてただ一人、ソクラテスの名前をあげている。『ソクラテス的難問(Socratic Puzzles)』という本まで書いているぐらいだ。
 これはソクラテスの思想そのものを支持しているというより、その対話への姿勢を哲学者の理想としたことによる。本書の副題「自己と人生のダイアローグ(=対話)」は、その点を表している。本書を読むことは著者のノージックとの対話であるし、読者が自分自身と対話することでもある。もちろん、本書を他の方々と一緒に読んで対話の素材とするのもよいだろう。

ノージック、人と作品
 著者のロバート・ノージックは、ロシア系移民の両親のもと、ニューヨークのブルックリンに生まれた。学部はコロンビア大学、大学院はプリンストン大学で哲学を学んだ。科学哲学者カール・ヘンペルの指導のもと、24歳の若さで博士号を取得している。学生時代は急進的な左翼運動にのめり込むなどしていたが、やがてハイエクやミーゼスといったオーストリア学派の経済思想に触れることによって、後のリバタリアニズム思想の基礎を作り上げていくことになった。
 ノージックは生涯を通じて、7冊の著書を残した。

 Anarchy, State, and Utopia, Blackwell, 1974(嶋津格訳『アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界』木鐸社、1994年)。
 Philosophical Explanations, Harvard University Press, 1981(坂本百大ほか訳『考えることを考える』上・下、青土社、1997年)。
 The Examined Life: Philosophical Meditations, Simon & Schuster, 1989(本書)。
 The Normative Theory of Individual Choice, Taylor & Francis, 1990.
 The Nature of Rationality, Princeton University Press, 1993.
 Socratic Puzzles, Harvard University Press, 1997.
 Invariances: The Structure of the Objective World, Harvard University Press, 2001.

 1971年、ハーバード大学の同僚であった哲学者ジョン・ロールズの『正義論』が出版され、規範的な政治哲学の世界的大流行のきっかけとなった。その3年後に出版されたノージックのデビュー作『アナーキー・国家・ユートピア』は、ロールズが切り開いた分析的政治哲学の流れにあるが、ロールズの平等主義的リベラリズムに対し、ジョン・ロック流の自己所有権論から出発しながら、個人の自由を至上の価値と位置づけ、国家の役割を厳しく限界づけるリバタリアニズム(自由至上主義)を体系的に展開した。この書はその理論的緻密さはもちろんのこと、豊かなレトリックや、数々の思考実験を用いた論述によって論敵たちをも魅了し、ノージックの名前を一躍有名にすることになった。現在でも、ノージックといえば『アナーキー・国家・ユートピア』のリバタリアン、という評価が日本だけでなく世界的にも定着している。
 その後の著作は、『アナーキー・国家・ユートピア』の圧倒的な知名度に比べれば残念ながらあまり知られていない。原因としては、ノージックが一冊ごとに大きくテーマを変えたこと、また論述スタイルも当初の分析的な文体から離れ、大きく広がっていくような(悪く言えば飛躍含みの)文体に変わっていったこともあるかもしれない。ノージックは論争を好まず、自身に寄せられた膨大な批判に逐一応答することもなかった。同時代の流行の議論とは距離を置きながら、独自の思考をめぐらす隠遁者のような位置に身を置くようなところがあった。
 しかし、その議論には先見性があり、Philosophical Explanations(邦訳『考えることを考える』)での認識論や心の哲学、形而上学、The Nature of Rationalityでの合理的意思決定理論などは、時を経て、現代の議論で出発点として位置付けられるようになっている。
 本書『生のなかの螺旋』も一般向けの著作ではあるが、現代の幸福論(福利論)や分析形而上学で参照されることが多くなっている。余談だが、24歳時の博士論文The Normative Theory of Individual Choiceは1990年になって公刊されたものの、ほとんど流通しておらず、入手困難となっている。しかし、その議論のいくつかはThe Nature of RationalitySocratic Puzzlesで展開されている。

ノージックの「転向」?
『アナーキー・国家・ユートピア』だけが話題となることについてはノージック本人も不本意だったようで、後年の著作(Socratic Puzzles)で、自分は「政治哲学者」ではないとわざわざ述べている。実際、ノージックの多様な著作群を見れば、むしろ『アナーキー・国家・ユートピア』が一冊だけ浮いているように見えることも確かだ。その後の著作でも規範的なテーマに触れることはあるものの、その多くはかつてのように尖ったものではなく、「もはやリバタリアンではない」と評されることさえある。たとえば、本書の第3章「親と子」では親子の結びつきについてリバタリアンらしからぬウェットな論述がなされているし、遺産相続による不公平を問題にするのも、ずいぶんと慈悲深く(現代のリバタリアンが好む言葉でいえば“bleeding-heart”に)なったと思わせられる。
 では、ノージックはリバタリアンから「転向」したのか。政治哲学の流行のテーマから離れ、よりスケールの大きい哲学者へと成長したのだろうか。それとも、同じ人物が書いている以上、相応の一貫性を読み取るべきなのか。
 こうした問いを考えることに、実のところどれだけの意味があるのかははっきりしない。ノージックの著作を横断的に検討した哲学者のアラン・レイシーは、ノージックは自身の見解を固めることよりも「探求」することに関心を持っていたと特徴づけている(A.R. Lacey, Robert Nozick, Princeton University Press, 2001)。思想史家アイザイア・バーリンが好んだ古い詩句「キツネはたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことをひとつだけ知っている」でいうと、ノージックは「キツネ」型の多彩な哲学者であり、その一貫性をむやみに問うたところで意味がないだろう。ノージックに限らず、リバタリアニズムの思想家は理論的一貫性を問題にされやすい傾向にあり、それももちろん重要ではあるものの、その反面、議論の幅が狭められていないか危惧される。
 とはいっても、ノージックの著作をそれぞれ無関係に読むこともまた、生産的なことではない。ノージックの取り組み続けたテーマのひとつに「人格の同一性」論(人が時間を通じて「同じ」人であるとはどういうことか)があるが、そこではギリシャ神話の「テセウスの船」が例にあげられる。この船は長い間、使われているうちに、部品が交換されていく。やがてすっかり新しいものに取り替えられ、元々の部品が何もなくなったとしても、その船は「同じ」船といえるかどうか。同じといえるとすれば、その同一性をつなぎとめているものは何なのか。『アナーキー・国家・ユートピア』出版から40年が経ち、ノージックもまた(ロールズと同様に)思想史的対象となった現在、その著作群のつながりと断絶を丁寧に読む時期になったといえるだろう。実際「アリゾナ学派」など新世代のリバタリアンたちはノージックのなかの多面性を積極的に読み取ろうとしている。本書『生のなかの螺旋』にも、そのヒントが多くちりばめられている。

「強制」に抗して
 では、ノージックの著作の「つながり」はどこにあるといえるだろうか。まず、リバタリアニズムの思想の中核が、他者による「強制」からの個人の自由の保護にあることについては改めて言うまでもないだろう。ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』以降の著作でも、この「反強制主義」の精神を保ち続けていた(本人のインタビューとして、Giovanna Borradori, The American Philosopher, The University of Chicago Press, 1994、またLacey前掲書も参照)。『アナーキー・国家・ユートピア』は基本的には分析的政治哲学のスタイルで書かれた書であったが、ノージックによれば、分析的な論述の「強制的」な性質は哲学にとって望ましいものとはいえないという。哲学は自身の主張を説得したり証明したりするのではなく、新しい思考を触発するように「説明」するものでなくてはならない。この思いは、2冊目の著書Philosophical Explanations(直訳すれば『哲学的説明』)という題名によって端的に表されている。リバタリアニズムは内容的には表に出てこなくなったが、反強制主義という方法論として生き残ったといえるだろうか。
 とはいっても、哲学者が自身の主張を相手に説得すべく、論拠を積み重ねていくのはあまりにも当たり前のことではないか。読者には当然、納得しない自由もある。にもかかわらず、それを「強制」というのは言葉の使い方として違和感もぬぐえない。ただ、論敵の主張を内在的に批判し、逃げ道を徹底的に塞いでいくような、分析哲学において標準的とされる論述が過度に攻撃的になるのもよくあることだ。それを「怖い」と感じる人も少なからずいることもまた事実である。
「分析系」の哲学だけでなく、「大陸系」の哲学や、東洋哲学・インド哲学にも親しんでいたノージックとしては、広く話題提供することによって人々の思考を触発していくことのほうがずっと楽しい哲学的な営みであると考えたし、それを一般向けに実践してみせたのが本書『生のなかの螺旋』であった。これは同業者の評判を気にしているとなかなかできない、勇気のいることである。実際、本書は支離滅裂な連想を連ねるものであって「読む価値がない」といった怖い書評もなされた(Jim Holt, “Is ʻThe Examined Lifeʼ Worth Reading?,” The American Scholar, 59(3), 1990)。

本書の先進性
 さて本書の背景的な事情についてさまざま述べてきたが、肝心の内容についても触れておかなければならない。本書が扱っている話題を単純に要約することはできないが、重要だと思われる点をいくつか見ていこう。
 生と死、親子関係、幸福、性愛、信仰……といったテーマをくくる言葉があるとすれば、それこそ「人生」としか言いようがない。ただ、それぞれはもちろん単なる人生訓ではなく、後の哲学者たちによって真剣に取り組まれるようになったテーマばかりであることは強調しておく必要がある。たとえば、鈴木生郎ほか『現代形而上学―分析哲学が問う、人・因果・存在の謎』(新曜社、2014年)、植村玄輝ほか『現代現象学―経験から始める哲学入門』(新曜社、2017年)はいずれもすぐれた現代哲学の入門書であるが、そこで扱われている話題を見れば本書の先進性がよくわかる。
 また、性愛の哲学を論じているのも(第7章「性」、第8章「愛の絆」など)、1989年当時としては先進的といってよいかもしれない。本書では、性的な関係性(に限らず「友情」なども含め)は「われわれ」をどう構築するかという問題であるという、表現主義的・社会構築主義的な議論がなされている。ちなみに、性に関わる意味秩序のあり方を論じてフェミニズム哲学に革新をもたらしたジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』は、翌1990年の出版である。ノージック自身はいわゆるポストモダニズム思想には親しんでこなかったようだが、後にミシェル・フーコーの著作を読み、強く共感したと述べている(前掲、Borradori著を参照)。まったく異なった思想的系譜から、類似した議論につながっている箇所を見つけ出すのも本書の楽しみのひとつだろう。

自己超越に向けて
 雑多であることを強調するだけでも仕方がないので、本書のノージックの最も特徴的と思われる主張に触れてまとめることにしたい。本書の多くの議論のうち、多く参照されるのは「人生の意味(meaning of life)」をめぐる箇所ではないかと思われる(第10章「幸福」、第15章「価値と意味」など)。
 第10章「幸福」では、最初の著作『アナーキー・国家・ユートピア』でおそらく最も有名な思考実験である「経験機械」がふたたび出てくる。経験機械とは、脳にプラグをつけたならば自分が望むどんな経験でも与えてくれるという機械である。そこで与えられるのは「夢」にすぎないのだが、私たちはそのプラグにつながれたいと思うだろうか。もし、それが嫌だとするならば、私たちはただその時点で感じられる快楽以上のものを求めているのではないだろうか。これは快楽主義批判の文脈でよく用いられる議論だが、これ自体の説得力はあまりないかもしれない(私だったら喜んでプラグにつながる)。
 ここでノージックは読者を説得しようと試みているわけではない。単なる経験には還元されない、また異なった幸福や人生の意味がもしかしたらありうるのではないか、と問いかけているのである。ノージックは、幸福や人生の意味を何らかの要素に還元してはならないという「反還元主義」的な立場をとっている。人生はもっと全体がつながった有機的なものであり、さらにいえば困難を乗り越え、自己超越を目指すロマン主義的な志向が強調されている。人生において追求されるべきものは、閉じた体系のなかにある「価値」ではなく、「現実」という外部から供給される「意味」である。
 さてそれは何なのかというと、ノージック自身の論述は残念ながらわかりやすいとはいえない。ただ少なくとも、本書全体の、とめどなく広がっていく連想はその候補を示しているといえるだろう。生も死も、性愛や友情も、あるいは信仰も、外部との関係において自己を超える重要なものであることは間違いない。
 しかし改めて強調しておくが、ノージックがそのどれか特定の自己超越のあり方を特別に重要なものとしているわけではない。幸福や人生の意味でさえも、多くの重要なもののなかのひとつにすぎない。ことによると本書は、かつての『アナーキー・国家・ユートピア』の最も謎めいた箇所である「メタ・ユートピア」を描いた群像劇として読むのが適切なのかもしれない。

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