日本の裁判員裁判では、裁判員に選ばれた者は裁判官と一緒になって、被告人が有罪か無罪かだけでなく、有罪であった場合の刑の重さ(量刑)まで決める。重大犯罪では死刑まで選択肢に入る。被告人の一生を左右する決定だが、どうやって決めればよいのか。刑事裁判のニュースを見て「こんなひどい犯罪なのに刑が軽すぎる、被害者の気持ちを考えて死刑にすべきだ」と考える人であっても、いざ自分が判断する立場になれば悩まざるをえないだろう。
本書『刑の重さは何で決まるのか』は、「刑罰とは何か」という根本問題について刑法学の観点から考えるべきことを地道にたどっていく。それは「長く曲がりくねった道」であり、明快な指針が出されることはない。むしろ、飛ばしてはいけないポイントをひとつひとつ確認していくことの重要さが示される。
ある行為が犯罪として非難されるべきかどうか、刑法では「構成要件該当性」「違法性」「責任」という順番で考える。細かいところまですぐ理解する必要はないが、重要なのは、罪と罰には考える順番があるということだ。重大な被害が生じた事件だからといって、どうにか責任を問えるようにするために行為と結果の因果関係を無理につなげるようなことがあってはならない。当たり前に思われるかもしれないが、罪と罰を考えるにあたっては「これはどの段階で考えるべき問題なのか?」ということをつねに意識すべきなのである。
このように考える順番を大事にするのは刑法の基本だが、本書ではそれにとどまらず、著者の独自の見方も随所に出ている。「刑罰は個人と共同体の自由なコミュニケーションの維持のためにある」という捉え方は新鮮だ。これは刑罰の目的を応報だけでなく、また予防だけでもなく、広く社会のなかで見ていくものである。本書全体の特徴として、人間は「社会内存在」であり、犯罪も社会のなかで意味づけられるという姿勢が一貫していることがあげられる。
二〇二二年の刑法改正により、懲役と禁錮の区別が廃止され「拘禁刑」に一本化されることになった(施行は二〇二五年)。この改正の目的としては、これまで「応報」「懲らしめ」の要素が強かった刑罰から、「回復」「立ち直り」を重視した刑罰への転換ということがあげられる。本書の姿勢は、こうした転換に沿うものといえる。
著者は「修復的司法」論に早くから着目し、積極的に紹介してきた。これは犯罪を特定の被害者やコミュニティに対する害として捉え、その回復を目指すシステムとして刑事司法を位置づける考えだ。被害者の感情はもちろん重要だが、それは処罰感情に限られない。むしろ犯罪が行われる以前の状態への「回復」こそ重要であり、加害者の側の責任はそれに向けた前向きなものへと捉え直される。
加害者と被害者の対話・和解という方策は、あまり現実的でないと思われるかもしれない。本書でも、あくまで可能な限りで、と念押しされている。しかし、受刑者もやがて社会に復帰し、包摂されるべき存在である。時間をかけた回復のプロセスとしての責任という本書の見方は、少なくとも理念として重要なものを示している。
本書の議論はさまざまな方向に広がりうる。たとえば、性犯罪者にGPS装着義務化と引き換えの釈放が認められるべきかどうかという問題は、日本でもすでに現実の検討課題となっている。本書が想定する社会やコミュニティが、いまやどれだけ実体的なものとして考えられるかという問題もある。刑罰の個別化・プロセス化が、応報的な刑罰の歯止めとなる代わりに受刑者の内面に踏み込む道徳的なものとなることも懸念される。犯罪は社会を映す鏡である以上、こうした問題はすべて、「人間とは何か」「社会とは何か」「国家とは何か」という本書の問いかけにつながっている。
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