富野由悠季論

〈2〉「アニメーション監督」の誕生
――富野由悠季概論

富野由悠季とはどんなアニメーション監督か。「演出の技」と「戯作者としての姿勢」の二つの切り口から迫る徹底評論! 書籍化にさきがけて本論の一部を連載します。 今回はシリーズ「富野由悠季概論」の第2回。富野由悠季監督の経歴を時代背景とともに振り返り、アニメーション監督として果たした役割に迫ります。 (バナーデザイン:山田和寛(nipponia))

アニメーションに「作者」はいるか?

 富野がアニメーション監督の認知に大きな役割を果たしたのは、1977年から1984年いっぱいまで続いた「アニメブーム」の時期に当たる。この時期は、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』をきっかけに、それまで子供(小学生)向けと思われていた「テレビまんが」「漫画映画」が内容的にも進化し、ティーンエイジャーの熱狂的な支持を得ていることが広く知られるようになった時期である。先述の富野のキャリアに当てはめると、1977年から1988年にかけて、ロボットアニメに革命を起こしていた第三期の前半に相当する。

 そもそもアニメーション監督の社会的認知というのは、どういうことだろうか。それは、端的にいうと監督が作品の‟作者”であり、作品制作は固有の価値観をもった‟作家”によって行われた、ということを、世間がちゃんと理解するということである。隣接領域の実写映画を想定すれば、その認識はごく当たり前のことだが、実は、TVと映画館を中心に流通するメジャー系アニメーションの場合、それは決して単純な道のりではなかったのだ(個人制作が中心のインディペンデント系の作品はまた状況が異なる)。

 アニメーション監督が社会的認知を得るにはふたつの段階を経る必要があった。第一に、アニメーションの制作工程において「監督」という職能が確立するという段階である。それが確立したからこそ、集団作業であるアニメ制作の中にあって、監督は「制作者集団を代表する棟梁である」ということが、スタッフの共通認識となったのだ。

 その次の段階として必要なのが、世間がそのことを理解する、ということだ。「アニメーション制作には監督が必要であること」を知り、「その監督は‟作者”‟作家”と呼びうるだけの権限や感性を有した存在である」ということ理解しないと、アニメーション監督の存在は世間では‟見えない”ままである。

 本章では、この「アニメーション監督」の職能と、社会的認知の過程を追うことで、『機動戦士ガンダム』のタイミングで、アニメーション監督・富野由悠季がどうして脚光を浴びるようになったか、を確認したい。

高畑勲のアニメーション演出

 では駆け足ではあるが、まず監督の職能はいかに確立されていったのかを振り返ってみよう。

 戦後の国産アニメーション史の大きなメルクマールとして挙げられる、国産初のカラー長編アニメーション『白蛇伝』(1958)。同作には、藪下泰司が脚本・演出としてクレジットされている。しかしこの時点での「演出」というのは非常に素朴なものだった。当時第二原画で参加していた大塚康生は、藪下が行っていたのはアニメーターがそれぞれに担当する各カットの調整であった、と回想している(※1)。当時はアニメーションというものを成立させているのは作画=アニメーターである、という認識が現在よりもはるかに強かったのである。

 この認識が東映動画内部で大きく変わるきっかけとなったのが、東映動画の長編6作目『わんぱく王子の大蛇退治』(1963)だ。

(引用者注・同作で演出とクレジットされた芹川有吾は)もともと新東宝で実写映画の助監督をしていた人ですが、ここでの芹川さんの登場には、かなりの意味があるんです。それまで、演出というほどの演出がなされていなかった東映長編アニメーションに、はじめて本格的な演出手法を持ち込んだのが芹川さん。それ以前の演出家の人たちは、さっき話したとおり、演出家というよりもコーディネーター、調整係みたいな役割だった。芹川さんはそうじゃなくて、「演出が作品の全内容をリードする」という方針を持っていて、『わんぱく王子の大蛇退治』において、アニメにおける演出の次元を一段高めた人ですからね

高畑さんが非常に幸運だったのは、『安寿』とか『わんぱく王子』で芹川さんについて、「演出とはかくあるべし」と教わったことだと思うんです。(中略)アニメーションの作画集団のただ中にあって、それまでの演出家たちが従属的ポジションにいた、あるいは単なる調整役として機能していたのに対して、「演出が全編の主導権を握る」というやりかたを芹川さんから学んだということです。で、その方式をさらに確固たるものに高めたのが、『ホルス』です。宮崎さんは、近くでそれをじっと見ていた。「『ホルス』で、はじめて本当の意味での演出というものが日本のアニメーションに確立されたんだね」と彼も言っていますよ(※2)

 大塚の発言の中に出てくる高畑とは、当然ながら高畑勲のことだ。そして、高畑が初監督(クレジットは演出)として制作した『太陽の王子 ホルスの大冒険』が公開されるのが1968年。このように1960年代半ばごろから、作品をまとめあげるには演出=監督の主導権が必要だという機運が出てきたことがうかがえる。

 東映動画以外の他社についても、演出に関しては、おおよそ似たような状況にあったと思われる。たとえば1963年の『鉄腕アトム』で本格的TVアニメの時代を切り開いた虫プロダクションは、1965年の『W3』でチーフディレクター制を導入して、杉山卓がその任についている。この背景については「スタッフは外注が多く登用されたため、テレビアニメとしては初の本格的なチーフディレクター制がとられた」(※3)と記されている。さらに1967年の『悟空の大冒険』になると、原作である手塚治虫の『ぼくのそんごくう』の枠を踏み越えて、総監督としてクレジットされた杉井ギサブローの想定したナンセンスなギャグ世界が展開されている。1965年の『宇宙エース』からアニメ制作に参入したタツノコプロ(当時:竜の子プロダクション)では、『ホルスの大冒険』が上映された1968年の『ドカチン』で総監督笹川ひろしというクレジットが登場した(※4)。

 当時のTVアニメは一話完結のものが多く、その点で各話の脚本・演出の裁量がかなり大きかった。そうした中でも、作品のトーンやマナーに一定の方向性をもたせるには、監督という役割が必要だという認識がTVアニメの発展とともに徐々に広がっていったことがうかがえる。

『巨人の星』と『あしたのジョー』

 そして1960年代後半から1970年序盤にかけて、その状況はさらに一歩進むことになる。1968年には長浜忠夫監督の『巨人の星』が放送開始。その二年後の1970年には出﨑統監督の『あしたのジョー』が始まる。どちらも人気原作のアニメ化ではあるが、長浜は劇的に盛り上げていく演出でアニメ版『巨人の星』を作り上げ、出﨑もシャープな演出でアニメならではの『あしたのジョー』の世界を生み出した。作風は違うが、どちらも演出家のカラーが完成した作品からにじみ出ており、両作とも現在では二人の代表作として広く認識されている。

 この二作の共通点は、主人公の人生を追う大河ドラマ的な構成を持つというところにある。大河ドラマ形式の場合、各話完結のTVシリーズよりも、作品全体を見渡す存在が必要になる。こうした作品では、当然ながら監督の役割はより大きなものになる。

 このように俯瞰してみると、アニメーションにおいて監督の職能が確立されたのは、1960年代後半から1970年ごろにかけてと推察される。

 富野が、初めての本格的監督作となった『海のトリトン』(1972)で、手塚治虫の原作を大胆に改作したり、最終回のどんでん返しを脚本陣に明かさず自ら執筆したりということが可能だったのも、監督という職能が確立された後の時期だったからだといえる。

『宇宙戦艦ヤマト』の「作者」は誰か?

 しかし、である。それでもなお、この時点で世間はアニメーションに監督——それも作家と呼びうる監督——がいることには気づいていなかった。多くの原作付きアニメは‟原作者のもの”であり、原作者自らがアニメを作っているという、根拠のないイメージを持っている人も多かった。

 この認識が大きく変わるきっかけは、1977年から始まったアニメブームだった。

 このアニメブームは、TVアニメ(正確にはTVの子供向け番組)とともに成長してきた1960年前後の世代が中学生になっても‟子供番組”を卒業せず、むしろ積極的に楽しんでいたことが背景にある。そして同時に一部のTVアニメもまた、中学生以上も楽しめる内容へと踏み込むようになっていた。このニワトリとタマゴのような関係が、アニメブームへと繫がった。その結果、それまで「テレビまんが」「漫画映画」と呼ばれていたアニメーションを「アニメ」と略称で呼ぶことが定着した。現在ではこのアニメが国際語化して、日本風のアニメーション作品は世界で「ANIME」と呼ばれている。

 このブームの直接的な発火点となったのは1977年の劇場版『宇宙戦艦ヤマト』の公開だ。『宇宙戦艦ヤマト』は、1974年に放送されたTVアニメ。当時としてはリアルなSF設定とメカ描写がティーンエージャーに支持された。そしてそれが総集編の映画として公開され、大ヒットを記録したのだ。

 ただしこの『宇宙戦艦ヤマト』の‟作者”が誰なのか、というのはなかなか難しい問題をはらんでいた。後に裁判も行われ、誰が原作者かを争うことになった本作だが、ここでは「監督の職能」にポイントをおいて、整理をしてみたい。(続く)

 

※1 大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』徳間書店、2001年(改訂最新版、文春ジブリ文庫、2013年)
※2 語り手・大塚康生、聞き手・森遊机『大塚康生インタビュー アニメーション縦横無尽』実業之日本社、2006年
※3 アニメージュ編集部編『TVアニメ25年史』徳間書店、1988年
※4 原口正宏・長尾けんじ・赤星政尚『タツノコプロインサイダーズ』講談社、2002

 

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