富野由悠季論

〈3〉『機動戦士ガンダム』の衝撃
――富野由悠季概論

富野由悠季とはどんなアニメーション監督か。「演出の技」と「戯作者としての姿勢」の二つの切り口から迫る徹底評論! 書籍化にさきがけて本論の一部を連載します。 今回はシリーズ「富野由悠季概論」の最終回。富野由悠季監督の経歴を時代背景とともに振り返り、アニメーション監督として果たした役割に迫ります。(バナーデザイン:山田和寛(nipponia))

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『宇宙戦艦ヤマト』の監督の役割

 まずTVシリーズの『宇宙戦艦ヤマト』では、現在行われている「アニメーション監督の職能」を三人が分担して担っていたと考えるとわかりやすい。その三人とは、西﨑義展プロデューサー、監督・設定デザインの松本零士、演出の石黒昇である。

 どういう作品を作るべきかというビジョンを持ち、スタッフを先導したのは西﨑だったが、西﨑はアニメーションの映像そのものを直接コントロールしていたわけではなかった。メカやキャラクターをデザインし、アイデアを提供して作品の個性を確立させた松本零士は監督とクレジットされ、絵コンテも一部手がけたが、その絵コンテを現場で使えるように修正したのは石黒である。一方、石黒はアニメーション制作の棟梁として映像作りに大きな貢献をしたが、『ヤマト』という企画の方向性そのものには基本的にノータッチであった。

 このTV『ヤマト』を再編集して作られたのが1977年に公開された劇場版だ。ここで監督としてクレジットされたのは、TVシリーズに監修として名を連ねていた舛田利雄である。舛田は、日活で『錆びたナイフ』(1958)などを手がけた実写畑の監督である。当然ながら舛田は再編集の指揮はとったものの、『ヤマト』という作品の根幹を創造したわけではない。ちなみに劇場版では、松本は監督ではなく美術・設定デザインとして、石黒はアニメーションディレクターとしてクレジットされている。

 こうした内実に対し、世間やファンから見た時、‟『ヤマト』の作者”は誰に見えていただろうか? 結果として、ファンや世間に対し積極的にメッセージを発信していた西崎、あるいはビジュアルイメージの構築やアイデアの提供で大きな貢献があり、コミカライズも手がけた漫画家の松本零士がヤマトの‟作者”として見えていたのである。

 また劇場版で舛田が監督として起用されたのは、映画館の館主に対して、劇場版『ヤマト』という企画を信頼してもらうためという側面が少なからずあった。当時の映画館主はアニメーションに監督がいたとしても、そんな知名度のない監督の作品を上映しようとは思わなかったのだ。そのため館主たちを説得する材料として、実写の映画監督の名前を使う必要もあった。実際、劇場版『ヤマト』がヒットした後に、ブームを受けて、さまざまなアニメの総集編映画が公開されたが、その多くに実写映画監督の名前がなんらかの形でクレジットされることになった(ただし、その関わり方は作品によって様々だった)。

 大ヒット作の『宇宙戦艦ヤマト』だったが、このような背景により、『宇宙戦艦ヤマト』の作者として、‟アニメーション監督”という役職が世間からピックアップされることはなかった。

『機動戦士ガンダム』がおこしたパラダイムシフト

『機動戦士ガンダム』が放送を開始し、ヒットしたのは、このような状況の中での出来事だった。『ガンダム』はまず、漫画原作を持たないオリジナル企画だったので、原作漫画家がアニメの直接的作者として認知されることはなかった。一方で、世界設定の構築や、キャラクターたちの内面的な造形、物語の内容の構築については、監督である富野が大きな役割を果たした。

 例えば、放送開始の前年1978年夏に富野が提出した企画案では、すでにスペースコロニーと地球の独立戦争を舞台にした内容が固まっており、スペースコロニーの配置図も描かれている。また、物語開始時点までに、どのような歴史的な経緯があったかのバックストーリーも詳細に記されている。主人公のアムロ像も「一人遊びが好き」「他人に対してのつき合いの訓練ができていない」と、本編にかなり近いイメージが書かれている(※1)。こうした作品の原型を提示した上で、絵コンテなどの演出作業を通じて、富野は『ガンダム』を作り上げたのである。アニメーションディレクターの安彦良和、脚本家チームらメインスタッフの貢献が重要な部分を占めることはいうまでもないが、それでもなお富野の果たした役割は大きかった。

 そのような意味で、富野は実写映画監督と近い形で、『ガンダム』を生み出したクリエイティブの棟梁であり、世間から見たところの‟『ガンダム』の作者”であるということが非常にわかりやすい存在だった。しかも作品の演出面でも、従来のアニメよりもさらに踏み込み、登場人物の間に男女の関係があることを匂わせる演出や、人類の行く末を見通すような壮大なSF的なビジョンが盛り込まれた。子供向けとは言い難いこうした表現があったことも、これを送り出した人間を‟作家”と呼びたくなる要素だった。かくして富野は、様々なメディアで大ヒット作『ガンダム』の‟作者”として取り上げられることになる。

 例えば富野は、劇場版が公開される1981年には、新聞や雑誌に様々な原稿を寄稿し、『週刊サンケイ』1981年8月27日号では「山際淳司の人間観察誌 ヒューマンウォッチング」のコーナーで取材を受けている。さらに映画プロモーションの一環としてテレビ『小川宏ショー』やラジオ『オールナイトニッポン』などにも出演している。さらに劇場版公開後の1982年8月14日には、NHK教育で放送された若者向け番組『YOU』の「「映像はぼくらのホビーだ」—ヤング・アニメ・フェスティバル— 」と題した特集に、手塚治虫と並んで、アニメのつくり手を代表してゲスト登壇している。

 こうした富野のメディアへの露出を通じ、世間はアニメにも「監督」が存在することを知ったのだ。そして、アニメにおいても監督の差配が作品を形作る上で大きな役割を持っているということも知られるようになった。劇場版『ガンダム』三部作のヒットと連動しながら、このような世間の認知が浸透したことは、これ以降のアニメで監督が注目される流れを作ることになった。

 先行する監督の長浜忠夫、出﨑統、あるいは『アルプスの少女ハイジ』(1974)などの高畑勲らは、アニメファンの中では知られた存在だったが、作品の知名度に比して、世間の認知はそこまで高くなかった。宮﨑駿についても、高畑作品の重要スタッフであった時期はそこまで名前を知られておらず、『未来少年コナン』(1978)、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)で一部にその存在を強烈に印象付けたものの、社会的認知は『風の谷のナウシカ』(1984)のヒットを待たねばならなかった。こうした状況を鑑みると、富野は社会的認知を得た極初期のアニメーション監督ということができる。

 富野の認知はその後のアニメーション監督の扱いにも影響を与えたと思われる。例えば1984年に公開された『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』は、公開前特番がTVで放送されているが、そこには、河森正治監督(クレジットは石黒昇と連名)が出演し、自ら作品の解説を行っている。当時河森は24歳で、本作が初監督。ファン的な知名度はさておき、世間的な認知は決して高いわけではない。だが、そこはもう大きな問題ではないのである。この段階ではむしろ「監督」が番組に出てきて語ることが作品PRにとっては大事だったのである。

 こうした流れを踏まえると、最初の劇場版『機動戦士ガンダム』三部作の特報・予告編では、キャストのクレジットはあるものの富野喜幸らメインスタッフの名前が一切出てこない、ということが極めて示唆的である。1982年夏の『THE IDEON』二部作でもそれは同様だ。

 一方で知名度のある原作者・松本零士の名前をフックにしたい1979年の『銀河鉄道999』の予告は、逆にキャストのクレジットはないものの、監督であるりんたろうの名前はちゃんとクレジットされている。1970年代末は、このように「アニメーション監督の名前を予告に載せるか載せないか」という一点をとってもまだばらつきがあったのだ。

 そういう意味で、1988年の『逆襲のシャア』の特報・予告で富野の名前が大きくフィーチャーされているのをみると、劇場版『ガンダム』以降のおよそ十年で大きなパラダイムシフトが起きたことが見えてくる。

「文化人」としての富野監督

 このような長い歴史的経緯があってアニメーション監督は、作品制作の棟梁としての「作者」であり、同時に得難い個性をもった「作家」であるというふうに世間から広く認知されることになった。そしてそのトップランナーともいえる富野は、認知の結果として、‟文化人”としてもしばしばメディアに登場することになった。これはつまりアニメーション監督の認知が進んだ結果といえる。

 ‟文化人”にクォーテーションマークをつけざるを得ないのは、その実態が定義しづらいからだ。あえて説明するのならば、その時代その時代に「人間や社会について自分なりの見識を持った存在」として見られており、それ故にその私見をメディアから語ることを求められる存在ということになるだろうか。学者だけでなく、小説家や映画監督も、こうした扱いを受けることが多いが、それもまた「人間や人間社会への洞察に富んでいるであろう」という理解に基づくものだ。実際、富野も「自分程度が語れるものか」という留保をつけつつも、上記のような機会があると、自分の視点で社会を語ることを避けない。

 2010年に公開された『日本の一番長い夏』(倉内均監督)という映画がある。原作は、雑誌『文藝春秋』1963年8月号で行われた座談会だ。そこには軍人や政治家、銃後にいた人々など総勢28名が集まり、1945年8月を振り返った。企画したのは編集者の半藤一利。この座談会は、2007年になって『日本のいちばん長い夏』(文藝春秋)として単行本化されている。

 この映画は、その座談会を再現ドラマとして構成したもので、‟文士劇”をコンセプトとした。‟文士劇”であるので俳優を専業としないジャーナリストや作家、漫画家など現代の文化人、知識人——たとえば田原総一朗、市川森一、島田雅彦、江川達也など——がキャスティングされている。ここに富野もその名を連ねている。

 富野が演じたのは、陸軍大将の今村均。この映画はそういう意味で‟文化人”としてアニメーション監督が選ばれた、という見方をすることもできる。

 この映画に限らない。特に21世紀に入ってから、富野の活動の範囲は広がっている。2003年に金沢工業大学が始めた「ガンダム創出学」講座に関わり同大学の客員教授に就任している。また作家・評論家と座談した『戦争と平和』(徳間書店)、自作や生い立ちを通じて家族を語った『「ガンダム」の家族論』(ワニブックス・プラス新書)、各ジャンルの専門家と対談をした『ガンダム世代への提言 富野由悠季対談集』(角川書店・全3巻)なども出版されている。こうした場で語られたこともまた、富野の思想、世界に対するスタンスであるのは間違いない。メディアやその読者が「この事象について、あのひとはどう考えるのだろう」と思う存在がアニメーション監督である富野なのだ。これは1980年前後のアニメブームの只中にいた世代が社会に出始めて、改めて富野の思想にダイレクトに触れたいと思った結果でもあろう。

 以上が駆け足で辿った、アニメーション監督・富野由悠季の足跡であり、その受容のされ方である。しかし、この連載では終盤に語った‟文化人”富野由悠季という側面は、一旦カッコにいれておこうと思う。これから考えたいのは、創作物を通じて浮かび上がってくるアニメーション監督・富野の存在感である。

 もちろん同じ人間だから、文化人として語る社会への視線や世界の把握の仕方は、作品にも色濃く反映されているのは間違いない。しかしここで大事にしたいのは、あくまでも映像中心に考える、ということである。映像の中にこそ宿る思想。それこそをすくい取ることで、「演出の技」と「戯作者」の両面に触れることができるのではないか。

 

 

※1 氷川竜介・藤津亮太編『ガンダムの現場から 富野由悠季発言集』キネマ旬報社、2000年。第1章「ガンボーイ企画メモ」を見ると、富野が記した初期設定から『機動戦士ガンダム』の基本設定がいかに構築されていったかがわかる。