ちくま学芸文庫

『論文の書きかた』に寄せて
ネットワーク化された情報空間で考える

執筆にあたってのカンドコロだけでなく、論文そのものを社会学的に考察した『論文の書きかた』が、このほどちくま学芸文庫に入りました。この10年に及ぶネットワーク環境と情報空間の充実は、論文作成にどのような可能性をもたらしたのでしょうか、そのあたりについて著者が綴ってくださいました。(PR誌「ちくま」より転載)

 私の実家は、もう30年も前に店を閉じてしまったが、北関東の地方都市で新刊書を扱う書店だった。父が軍隊から帰ってきてはじめた戦後の業界新規参入で、教科書販売の権利などをもっている古くからの本屋ではなかった。しかし、時代はまだ書物を必要としていた。街も書店も元気だった頃で、最盛期にはそれなりに大きな店舗を構えていた。
 子どもの頃からよく店番を手伝っていて、児童書・文芸書・専門書・学参・文庫新書などにジャンル分けされた書棚のなかに、「実用書」という分類があった。ハウツー書や教養書を幅広く指し、料理や工作や旅行や冠婚葬祭や資格取得、日常生活で役立つ知識や技術を主題とした雑多な本が並んでいた。
 今回、文庫にしてもらった『論文の書きかた』は、いわゆる論文を書こうと思ったときに役立つ「ちょっとした知識や技術」に光を当てたという点で、じつは「実用書」である。鶴見俊輔の『文章心得帖』[ちくま学芸文庫、2013]のように、構成や表現に踏みこんだ演習として展開できたらよかったが、そうした機会は残念ながらもてなかった。むしろ清水幾太郎の『論文の書き方』[岩波新書、一九五九]やハワード・ベッカーの『論文の技法』[講談社学術文庫、1996]のような講義の形式に近づいた。まあ特殊講義の公開講座である。
 初版を書いて以降のほぼ10年のネットワーク環境と情報空間の充実は、あるいは現代の事情にあわせた新説の増補を必要としているかもしれない。たしかにデジタル空間での資料の参照や活用の便利は、ずいぶんと進んだ。とりわけ、生成AIなどが話題になり、定型的な文書やちょっとしたレポートならば、たくみに代筆してくれるほどになった。だから大学の同僚も、そうしたなかで学生たちをどう指導するかに悩んでいると聞く。ただ今回はあえて新章の増補をしなかった。十分に論ずる準備がなかっただけでなく、自覚しなければならない方法としての本質は、変わっていないと感じたからである。
 なるほど、国会図書館が整備した「デジタルライブラリー」は、「近デジ」の時代以上に参照できる文献が拡がって、広い範囲を居ながらにして探索できるようになった。これに、大学図書館をむすぶOPACの書誌とJ-STAGEの論文検索を加え、「朝日新聞クロスサーチ」や読売新聞の「ヨミダス」などの新聞データベースを使いこなすなら、論文の準備や執筆も相当に効率的に進められる。
 だから近年注目されている生成AIならば、データとして参照できるネット上の関連情報を広範囲に探して、「計算」を通じて既存の知見をうまく要約し、そつがない文章を紡ぎ出すだろう。ただ私自身が、たとえばと柳田国男のいくつかの概念の可能性をChat GPTに問うてみたところ、D(不可)にしようとまでは思わないが、せいぜいB(良)かC(可)のレベルの解答しか返してこなかった。A(優)以上に評価するには、ただ多くのひとが言っていることをうまくつなげた整理だけでは不十分である。既存の知識の羅列・並列を読破し、新たな解釈の方向性を生み出し、またその動きを自己審査するような「問い」のオリジナリティが求められるだろう。このあたりは、私が「コピペ」の功罪で論じたことの延長である。
 私自身も、『文化資源学講義』[東京大学出版会、2018]に収録した「万年筆を考える:筆記用具の離陸」では、まったく基礎知識がない主題でも、インターネット上で共有されている道具を縦横無尽に活用すれば、まだ論じられていない側面や知識まで発見できることを経験した。だからこの間のネットワーク環境と情報空間の充実には、ほんとうに可能性を感じる。
 その一方で、歴史研究ではまったく使えない水準の検索機能しか備えていない毎日新聞の「毎索」には強い不満をいだいたし、万朝報や都新聞などのいまは発行されていない新聞の記事や、各地の歴史的な地方新聞が、この参照の利便から取りのこされていることなど、情報空間のあまり論じられていない偏りを残念に思った。AIの粘り強い学習機能を駆使して、古いOCRの解読を精緻化し効率化すれば、そのあたりの欠落も急速に改善できる。だれか、公共事業として試みてみないか。