ちくま学芸文庫

少しでも死者がまざまざと、もう1回思い返せるような本にしたかった
澤地久枝さん特別インタビュー

1942年6月5日にはじまった「ミッドウェー海戦」は、日本がアメリカに大敗を喫し、太平洋戦争の転換点となった海戦です。澤地久枝氏による『記録 ミッドウェー海戦』は、この海戦の戦死者遺族に取材し、日米戦死者3418人を突き止めてその声を拾い上げ、全名簿と統計資料を付した第一級の資料。本書は、海戦から44年後の1986年6月に文藝春秋より刊行され、それから37年を経た2023年6月に、ちくま学芸文庫として復刊されました。取材をはじめたきっかけ、遺族との思い出や読者へのメッセージなどをお話しされた、澤地氏へのインタビューをお届けします。(2023年7月に収録)

 

『記録 ミッドウェー海戦』をどうして書こうと思ったか

 私はやっぱり戦争が終わった時に、何にも知らないと、本当に愚かだったということをまず思ったんですね。
 14歳の時に突き放されたような(満州での)難民生活を送って。心の底には、助けを求められても助けてやれなかった一人の友達がいるんです。 
 この人は吉林(中国東北部の省。旧満州国領)という(私が)住んでいた町の有力者のお嬢さんでね。彼女は(満州から)引き揚げてきたら母親と母親の兄弟とおばあさんと、年寄りを4人ぐらい見なきゃならない。しかも15歳ぐらいですよね。 あてがない。どうやって食べていいかわからないっていつもハガキが来たんですよ。「もうどうにもならない」ってね。そのうちに女工になったっていうのを(聞いて)。
「人が何と言おうと私にはこれ以外に生きる道はなかった」という手紙をくれて、それっきり消息が絶えたんです。社会福祉みたいなものは何にもない世の中だったからね、戦争終わってすぐね。
 私は戦争の時になぜ女の予科練はないのかと思っていたのは、戦争で死ななければならないと思っているような女の子だったんですね。彼女もなぜ予科練が女に道を開かないのかって、2人でいつも悲憤慷慨をしてね。
 この人は私に一種のSOSを出しながら、私もどうにもできなくて。私はこの人を見失ったんですよ。
 私はやっぱりそういう風な人のことは忘れられないから、じゃあ戦争とは何なんだ、何だったんだろうか。死のうと思っていたけどどうやって死ぬ気だったのかというようなことが私の長い間の疑問としてあったわけです。
 簡単な答えは出ないじゃないですか。 私も学校行きながら働きにも出たしいろいろやったけれども私の中で答えはなかったんですね。そういう行き暮れたような何年間かが、(戦争に)負けた後にあったんですね。

  *

 戦争が終わって5年かそれ以上の時間というのは全くバカな女の子でしたね。何もわからないんですよね。だけど考えることをしなかったですよ。
(その後)「きけ、わだつみの声」という映画を観たんですね。それは私が初めて知った戦争の一つの顔だったんですね。高田馬場の近くの映画館の2階で見ていてね、泣いて階段を転げ落ちそうなぐらいショックを受けたんです。
 つまり人はみんな喜んで死んでいくわけじゃないんだということをその時しみじみ思いましたね。絶対戦争に行って人を殺したくないと。私はその辺から、「戦争はなんだ」ということを真面目に考える女の子になったと思います。

「戦争はよくない」というふうに思って、でも戦争というものについて私は知らないということが、ずっと私の人生であったわけですね。いろんな形で、戦場から生きて帰ってきた人に会ったり、戦場でひどい目にあった人の妻に会ったりというようなことを、編集者としてずいぶん仕事はしたけれども、でもこれだという答えがなかったんですね。
「戦死はひどい」と言うけれども、そしてその戦死するのはだいたい兵隊であろうと思っている。だけど実態がどうかということは自分の中で納得がいっていないということが何十年も続いたわけですね。
 それで戦争終わってずいぶん経ってからいろんな(執筆の)テーマを考えた中の一つが、「ミッドウェー海戦」というもので。敵と味方が戦ったんだけれども、どんな戦い方でどういう結論になったのかを調べてみようかなという気持ちになったんです。だからそこへ行くには私自身の非常にジグザグな人生があったと思いますね。 
 

3418人の戦死者へたどり着くまで

 それでやり始めてみたら厚生省は全く協力してくれないということで全く途方に暮れました。最初は厚生省に行けば、ミッドウェー海戦ではこれだけの人間が死んでいるというぐらいのことは把握していると思っていたけれども、ここには何もないと言われて。「地方自治体にあるでしょ」と非常に突き放された形で言われた時に、「こんなに戦争っていうもの、戦死というものがみんなの関心にないのか」と思ったんです。
 でも一家の中で戦死者を出した人たちはそうじゃないだろうとまた思ったんですね。
 それで、じゃあこれは当たってみるしかないと思って、いろいろなところへ当たっていったら思ったよりも多い人たちが亡くなっていて、しかもその遺族、残された家族はみんなよく忘れずに覚えていて、話を聞けばみんな話しながら途中で涙をこぼすというふうな、そういう死者と生者との関係があるということもだんだんわかってきた。 
 国というようなもの、厚生省が一切協力をしないならばこれは私個人でもやらなきゃならないだろう。それは見殺しにした友達に対する答えでもあるんじゃないかと。
 それで私は、これは最後までやろうと。

  *

 これをやってる時にやっぱり苦労したんですよ。途中で投げなかったからね。終わりまでに最終的な答え、ともかく(戦死者の)人数だけ確認できればいいと思ってみんなを力づけてやってきた仕事に、人数どころじゃなくて出自、どこに生まれた人で、そして階級も分かり、それから結婚してたとか学校行ってたとかっていう、最低限必要なことは全部わかったのね。これはすごいことだと思うね。これは誰がやってもこういう答えに到達するはずです。必要なのは根気だけ。それとやっぱりお金かもしれない。
 途中でやめてもそれなりに終わる仕事ってものはありますね。でもこの仕事は途中でやめたらないんですよ。だから(単行本の初版時に)アメリカ側の8人のわからないということがわかった時、その8人がわからなかったら、もちろんグラフの上では8人は不明って書いたけれどもこんな中途半端なことはダメですよね。だからもう本当にどこへ行っても探すつもりだった。*その後、ハワイのパンチボウル墓地で全員判明。
 やっぱりこれだけ大勢の人と向き合って仕事してるわけですよね。夜中に一人で起きて、写真を置いといて「なんとかさん」って話してるの。そうするとその人の部下の8人はわかりませんってわけにいかないじゃない。だからね、この人の死に方も家族にちゃんと伝えなきゃならない。だけど同時にこの人の部下で、8人の生年月日がわからないのはなぜなのかということね。
 やっぱりわからないってことはありえない、人が生きていて。でもやっぱりどっかで黒点みたいに抜けてるんですね、人の記録っていうのはね。だからこれを埋めるっていうのはやらないと、黒点は黒点のままわからないで行っちゃいますから。

  *

 ミッドウェー海戦でも将校は本当にわずかしか死んでいない。そしてやっぱり考えていたように兵隊さんが一番死んでいるということになると、私が漠然と感じていた軍隊あるいは戦争のイメージが、これではっきりしたと思うのね。
 こういう答えに到達できるかどうかも自信はなかったですね。仕事してる時は。だけどなんとかして求めている答えに近づきたいという気持ちは非常に強くありましたね。
 それをやることは、私自身が戦争って言われると自分が本当に良くない人間だっていう気持ちが片方にあるから。まあこの仕事をやりおおせればそれが許されるかなと思うような気持ちはありましたね。
 

調査への反発・世間の反応

 あの頃、あんまり世間はこの仕事を受け入れなかったですよ、はっきり言ってね。誰も認めてくれなくても私はこれでいいと思っていましたけど。
 私、実は航空母艦見たこともないのね。だからそう言うともう海軍の人みんな怒るのよね「見たこともないものを何で書けるのか」って言うけれど。でも私軍艦見たことなかったのよね。
 それは子供だからね、その頃ね。負けた時に14歳では怒られてもしょうがないですよね。
 怒られてもしょうがない人たちも戦争について考えたり書いたりするんですよ。これからはほとんどの人はみんなそうなるじゃないですか。だからその怒った人は無理なことを言って怒ったと思うけれども、でも 「もう軍艦見たこともない人間が何を言うかって」本当に怒られた時はもうそりゃそうだと思いましたよ、私もね。
(海軍出身者に)「ちゃんとあなた自信を持っておやりなさい。普通の人が読んで「これはおかしい」と思うことはおかしいんだ。普通の人が読んだらわからないというようなものは戦闘経過を報告するものであってもそれはおかしいでしょ」って言われたの。
 それはそうですよね。何世代先へ行ってもその人たちがやっぱりこれは変じゃないかと思えるような文章で書かなきゃならないと思うのね。だけど自分たちだけが分かっている、そして外には一切秘密というようなことは、戦闘で大勢の人を預かって大勢の人を死なせているんだから、それはやってはならないですよね。だけどそれをやってはならないことだったというふうにはなっていなかったですね、私が生きてきている時間にはね。

  *

 私は責任感なんて言われると「そんなものあったかな」と思います。ただ意地みたいなものがあったかもしれない。でも仕事してる時に意地なんて言ってられないのよね。あなたそんなに悪口言うのはいいわ、あなたが答えてくれなければ私は他の道探しますっていう気持ちが私の中にあった。
 

遺族との思い出

 勝又さんて、肇っていう名前の子ね。この子は小学校を卒業する時に家の中で「俺は今度新聞に出るぞ」って言ったっていうの。母親は聞きとがめて「何を言うのか、新聞に出るには人を殺すか何かしなければ出ないのに、お前何を言ってるのか」ってお母さん怒ったっていうのね。でもこの子は怒られながら海軍を志願するんですよね。14歳くらいで。
 志願をしたけれども一応検査というか選考の会があるわけね。「今日は俺は新聞に出るんだから俺は」って威張って出てったんですね。だけど日が暮れて、千葉の田舎だからだんだん夜が深くなってきた時に長兄が「あいつは威張って出て行ったけれども、今頃どっかで寂しがってるかもしれないから迎えに行ってやるわ」って迎えに行くの。
 お墓があるところをこうやって見たらね、なんか小さな人間の影がウロウロしてるって言うんです。でね、「はつ」ってうちの中で呼ばれてるから「はつか」って言ったらね「兄ちゃん」って走ってきて抱きついて泣いたってんだよね。私はねこれはねどっちも真実だと思うの。抱きついて泣いたというのもね、この子の真実ですよね。
 でもこの子も兄弟とお父さんが面会に行って、軍隊の中の面会だからやたらともの食べても食べさせられてもいけないし、厳しいんですね。それで帰ってくる時に、俺はあそこにいるんだって言ってた建物に振り返ってみたらね、はつくんが手でこういう風にして涙をふいたのが見えたっていう。お兄さんとお父さんはね「あいつは死ぬ気かもしれないぞ」っていう話をしたって。
 この子のお墓も行きました。

 私はやっぱり毎晩この(本の)ページ繰るんですよね。そうすると私が何度も会いに行って遺族をよく知っているような人も出てくるのよね。
 戦争で大勢の人が死んでいて、残された女の人たちが非常な苦労をしている。でも世間はその残された女たちの苦労なんて考えもしないから、その人たちのことは残るようにしなきゃならないという気持ちは、この仕事をしている時には絶対ありましたね。
 何人かの奥さんと親しくなったし、だから終わった時にみんなに喜ばれたですね。

 私は初めてミッドウェーの海に行く時には、もう本当に肉親に会いに行くような。晴海の埠頭で泣きましたね。その時にね、ロッド・スチュアートだと思うけれども、ジャズみたいな歌で、いつも好きでそれを聞いてたんですね。それが流れたの。これも不思議ですよ。そんなに流行ってる歌でもないのにね。それが流れてきた時にね、もうなんか非常に感無量でしたね。全てのことが全部この仕事に絡んでいると思えてしまうんですよ、不思議なことにね。

 いちいち因縁があるように思うのよ。普段ならそんなバカなことは考えないけれども。
 餅つきがあってね、おはぎを作るのね。みんな一生懸命おはぎ作ったの。でね何するかって言うと、みんな海に投げる。出来たてのおはぎをね。みんな食べさせてやりたいわけ。
 面会に行っても何も持ってきちゃいけないって言うからね、見つかった人がひどい目にあった、リンチされたっていうことも知ってるから、生きてる彼には食べさせてやれなかったけども、おはぎが、ぼた餅が好きな子だったからって言うんで、もういっぱい餅ついてあんこつけて、海へ投げた。そんなことは本では書かなかったと思います。
 

『記録 ミッドウェー海戦』への思い

(ミッドウェー海戦を)昨日のことのように覚えていて、そして調べている人に連絡をしようというようなことは日本の社会ではもう考えられないと思います。
 ミッドウェー海戦が敗戦のきっかけになったと教科書に書いてあるとしても、ミッドウェー海戦について人々が話し合うというようなことを考えられない。そういう状況の中で、これから誰かがまたミッドウェー海戦のことに疑問を持って、例えば私がこういうことをやってるから私のところに(話を)聞きに来るということはもうないだろうと思ってます。誰も来た人はない。この3年あまりの間に。
 もう時代が変わっていくし、それから時間が経ちすぎていますね。
(アメリカも日本も)同じ体験ですよね。ミッドウェー海戦というもので死んで、あの海の底に沈んでいて、敵も味方もないわけですよね。もうお骨になっている人たちが、もしも言葉が交わせれば「君もここで死んだのか」「私は何々が好きだった」って言うと向こうも「いや僕もそうだった」っていうような会話が成り立ちそうだけど、これは成り立ちっこないじゃない。
 だから生き残ってる人間は「この人はこういう人が好きだった」っていうようなことを書かなきゃならないと思う。そうすると遺族の人たちは「アメリカにもこういう人がいたのか」と思ってくれるじゃない。少しでも死者がまざまざと、もう1回思い返せるようなことになるような本にしたかったですね。

  *

 ここらへんで加賀が沈められたというところで、7冊(『記録 ミッドウェー海戦』と『滄海よ眠れ』全6巻)を風呂敷に包んで、心の中で戦死者たちと話をしながら海へ投げたんです。ミッドウェーの海っていうのは5000~6000mの深さがあって実に透明で綺麗な海でね。簡単にパッと沈んでいくだろうと思って投げたんだけど、かなりの重量があるのにゆらゆらこういう風に揺れていつまでもいつまでも見えてたんです。
 なんだかそれがね、死んだ人たちが「いやよくやったね」って言ってくれたような気がしました。私自身は。
 それは誰も言わないし、それからそんなこと思ったってみんなが思ってくれてるかどうか分かりませんけれども、私はでもそこで、やっと自分が迎え入れられたということを感じました。ずっと気になっていた友達ももう生きてるはずもないので、まあみんな死ねば一つの世界に行くわけだから、いずれ私も行くんだけれども、なんかもう胸の中にいろんなものが立ち込めてきて、やっぱりやってよかったと思いました。
 そこまではね一体これはどこへ行くんだろうって自分も本当に心もとないところがあったですよね。
 やっぱりこれで私という人間は燃え尽きたと思う。
 

『記録 ミッドウェー海戦』を読まれた人へのメッセージ

 この本を読まれたっていうことを大事にしていただきたい。やっぱりあの何かストーリーを読んだということとは ちょっとこの本は違うと思うのね。だから、この3418人の中のどこかで、あなた繋がってるかもしれない。この名簿を見るとあなたとそういう人とのつながりが見つかるかもしれないんだから。そういう意味ではしっかり見てくださいって言いたい。 

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