ちくまプリマー新書

「社会」は「意味」のかたまりである――複雑さからはじめる社会学入門
『社会学をはじめる』より本文を一部公開!

「社会」には、それがどんなに小さな社会であったとしても、二重の複雑性があります。一つは、この社会には多様な価値観を持つ人々が生きていて、ローカルなものからグローバルなものまで、様々な仕組みや制度が入り組んでいる、ということです。そしてもう一つは、いくつもの「意味」で社会は構成されているという複雑さです。まずはこのことから、「社会」とはなにかを考えてみましょう。
社会学の考え方、基礎が身につく『社会学をはじめる――複雑さを生きる技法』より本文を一部公開します!

社会は二重に複雑

 社会というのは複雑なんだ。どういう小さな単位の社会でも複雑なんだ。

 そこからこの本は話を始めたいと思います。注目するのは、その複雑さが二重性をもっている、二つの複雑さが重なり合っている、ということです。

 社会の複雑さの一つ目は、いろいろな制度やしくみが入り組んでいるとか、グローバルな問題とローカルな問題がからまりあっているとか、あるいは、人びとの価値観が多様だとかいった複雑さです。これは、直観的にもわかりやすい複雑さでしょう。

 何か私たちの身近にあるものを取り上げてみて、そこから考えてみましょう。たとえば牛乳はどうでしょう。

 牛乳という私たちの身近に存在しているものの背景には、実に多くのものがからみあっています。まず、牛乳を私たちに届けてくれる酪農家たちがいますが、その酪農業はかつてと大きく様変わりしています。酪農家の戸数は減少し、一戸あたりの牛の数は大規模化しています。大規模化のために大きな負債をかかえている酪農家も少なくありません。その一方で、あえて大規模化せずに酪農を続ける農家もいます。

 酪農家の多くは、輸入した飼料を使用していますが、その値段は国際情勢の中で高騰することがあります。世界経済と酪農業はダイレクトに結びついているのです。さらに酪農家と農協、そして乳業メーカーとの間にも、複雑な関係があります。また、牛乳には、幾多の政策や法律も関係しています。さまざまな補助金が存在すると同時に、政策によって生産調整させられることもあります。

 さらに、牛たちの糞尿が悪臭や水質汚濁をもたらすという問題もあります。一方で、その糞尿を肥料やエネルギーとして利用しようという動きもあります。しかしそこにはさまざまな課題もあります。

 また、流通システムや私たちの消費行動が、牛乳という存在に大きくからんでいます。牛乳パックのリサイクルの問題(製紙業や廃棄物システム)やエネルギー消費の問題(牛乳の製造から保存、流通には大きなエネルギーが必要です)も重要です。

 さらに牛乳の消費行動には、食文化とか、家族のあり方とか、そんなこともからんでいるでしょう。そもそも牛乳を飲む文化も乳製品を食べる文化もなかった日本で、なぜこんなに牛乳や乳製品が定着したのでしょうか。

 私たちに身近な牛乳一つ取り上げても、複雑なしくみ、複雑な問題がからんでいることがわかります。

 多くの人が直観的に理解するように、このような複雑さは昔より今のほうが、その度合いが増大していると見ることができるでしょう。小さな共同体で生きていた人類が、巨大なグローバル社会を生みだすに至り、どんどん複雑化していった姿が現代世界です。八〇億の人びとが、お互いにまったく無関係とは言えない、何らかの形でつながっているのですから、複雑でないわけがありません。そのつながり方も、お金を介するつながり方、モノを介するつながり方、制度や情報を介するつながり方などが複層的に重なり合っています。

社会は意味から成り立っている

 このような複雑さがどちらかというと外形的な、時代とともにふくらんできた複雑さだとすれば、もう一つの複雑さは、小さな共同体で生きていたときも、今も、もしかしたらあまり変わらないかもしれない複雑さです。それは何かというと、人びとがそれぞれもっている「意味」の世界(意味世界)が一つでない、人びとが見ている世界が一つでない、という複雑さです。意味が多重に折り重なっているという複雑さです。

 社会は「意味」で構成されています。意味のかたまりが社会であり、意味のダイナミズムが社会です。物理的なモノや物理的な人間が存在するだけでは「社会」にはなりません。物理的なモノや、モノとモノの関係について、言語を媒介に何らかの「意味」でとらえる人間という存在がいて、その意味や言語を媒介にお互いに関係をもちあうようなしくみ、それが社会です。

 たとえば、こんなことを考えてみましょう。

 あなたが、声が聞こえないくらいの距離、たとえば二〇メートルほどのところで、十人くらいの人がまとまって立っているのを見かけたとします。まだその段階では、その十人が「集団」なのかどうかもわかりません。あなたはどこに注目するでしょうか。その人たちの身長に注目するでしょうか。高い人と低い人が入りまじっているなあ、と考えるでしょうか。しかし、それはまだ「社会」に注目しているとは言えません。ただ「高さ」という物理的なものに注目しているにすぎません。

イラスト:松本藍

 しかし、その人たちがどうやらお互いに何か関係しながら動いている、たとえば、お互いに向き合っているようだとか、話しているふうだとか、喧嘩しているふうだとか、そういうことに注目したら、それは「意味」に注目した、つまりは、「社会」に注目したということです。「お互いに向き合っている」というのは、物理的な体の方向に注目しているのではなく、両者の「関係」という「意味」に注目しているわけです。この「関係」はもちろん、何センチメートル空けて向かい合っているとかいった物理的な関係ではなく、人間としての関係、たとえば、仲がよいのか悪いのかとか、上司と部下なのかとか、どういうことを話す仲なのかとかいったたぐいの関係です。

 そしてもうひとつ大事なことは、あなたが注目している「意味」が、観察しているあなたが勝手に作り出そうとしている「意味」ではなく、彼ら自身が認識している「意味」だということです。仲がよいのか悪いのかとか、上司と部下なのかといったことは、本人たち自身が認識していることであり、その本人たちの認識そのものをあなたは観察からわかろうとしているのです。

 もちろん、あなたが注目した「意味」のなかには、「本人たちが認識していない意味」もあるでしょう。たとえば、彼らのズボンが全員ジーンズだった場合には、彼ら自身ははっきりと意識していないけれど、彼らの生活習慣が似通っているとか、そういうことをあなたは「意味」として読み取ることもできます。

 しかし、ここでの「本人たちが認識していない意味」は、たとえば彼らの体内で今インシュリンがどのように分泌されているかという、やはり「本人たちが認識していない事実」とは違うことに留意してください。「彼らの生活習慣が似通っているから」などの理由で全員のズボンがジーンズであるということは、やはり人間がもつ「意味」の世界での話なのです。

 向こうに立っている彼らについて眺めるとき、私たちはその「意味」を読みとろうとしているのです。そしてそれがつまり、私たちが考えようとしている「社会」です。



『社会学をはじめる』

好評発売中!

関連書籍