単行本

自由意志なき世界?
『時間と自由意志――自由は存在するか』序文より

青山拓央『時間と自由意志――自由は存在するか』より、序文の前半部を公開いたします。従来の哲学が依拠してきた「自由意志vs.決定論」という対立図式を根底から揺さぶり、自由をめぐる議論に新たな境地をひらく圧巻の論考です。
 
序文

 自由意志、必然と偶然、選択と責任――これらに関心のある読者にとって、本書はおそらく読む価値がある。とりわけ第一章で詳述する「分岐問題」に惹かれた読者にとっては。利用した旧稿を含めると本書の完成には約十年を要したが、その長さはむしろ、作業の合間の休息による。本書については他の拙著と異なり、ある程度の分量を書くたびに――別の作業に移ることで――休息をとる必要があった。その原因がどこにあるのか、はっきりとは分からない。ただそれは、著述の姿勢の特別さなどではなく、論じられている問題の性質に由来するものだろう。そこには何か非人間的な真実があり、われわれの接近を拒んでいるように見える。

 本書はいわゆる哲学書であるが、哲学研究者以外の方にも、関心があればぜひ読んで頂きたい。ただその際、本書が目指す議論の性格をあらかじめ知っておいてもらったほうがよいだろう。その導入としてまず、次のような未来の社会像を示す。この像は、それに近い社会が実現することが多くの人の目にすでに明らかである点において、予言というほど大げさなものではないし、まだまだ限定的ながら、部分的にはすでに現実となっている。

 その未来の社会においては、脳と意思決定の関わりが詳細に理解されている。高解像度で非侵襲的な脳スキャン技術も確立しており、人間の現在の脳状態を見ることで、その人物の直後の行為をきわめて高確率で予測することができる。このとき興味深いのは、脳状態に基づく予測が、その人物の内面における意思決定の自覚にも先立つ点だ。つまり現在の脳状態を見ることで、その後の行為だけでなく、行為者の内面的な意思決定を予測することも可能であり、このことは一般的にこう解釈される。人間がこれからどんな行為をするか、どんな行為をしようと思うかは、その人物の脳によって丶丶丶丶丶決められている、と。

 さらにこの社会においては、脳に医学的に働きかけることで、行為や意思決定を操作することが広く実践されている。常習的犯罪者や神経症患者の習癖の改善においてはもちろん、いわゆる普通の人々にとっても、そうした脳操作は身近なものとなっている(学習効率を高めるために勉強をしたくなる薬を飲む、等々)。SFを読まれる方にとっては、これはお馴染みの設定であり、たとえば次の一節はそれを戯画的に描いたものである。

「888をダイヤルすればいい」リックはテレビのスイッチをいれながらいった。「どんな番組であっても、テレビを見たくなる欲求だ」

  「いまはなにもダイヤルしたくない気分なのよ」

  「じゃあ、3をダイヤルしろよ」

「まっぴらだわ、ダイヤルをセットする意欲がわくように、大脳皮質への刺激をダイヤルするなんて![……]」(1)

 哲学者たちがどのような議論をしようと、社会がこの種の未来に日々近づき、それに伴い、自由意志なるものへの信頼が下がり続けることは避けがたいだろう。つまり、私の行為を決めているのは私自身ではなく脳であり、それゆえ、行為選択の〈起点〉――そこから可能な諸行為の一つが現実に開始される――としての自由な意志など存在しないのだ、というように。こうした見解は、行為の責任を問う際にも重要な意味をもってくる。なにしろ、どんな悪事であろうと、脳が丶丶やったと見なされるのだから。

 こうした未来の予見に対し、社会がそこに向かうべきか丶丶丶否かを現在の筆者に論じる力はないし、そうした議論と以下で見ていく議論が並走可能なのかも定かではない。本書の目的はもっとささやかで、ある意味ではもっと執拗であり、それはつまり、ここで描かれている状況の意味をひたすらに正しく理解することである。いま仮想したたぐいの未来の状況を理解するだけでなく、それに向かいつつある現在の世界がどのような世界かを理解すること――。

 本書でこれから見ていくように、脳が人間の行為を決める――人間は脳に操作された「不自由」な存在である――といった図式は、じつは不正確なものである。そこでは一見、自由意志が過去の遺物として消去されているが、この図式は根本的な意味で、自由意志という幻想にむしろとらわれている。第一章で詳述するように、〈起点〉としての自由意志にはさまざまな論理的難点があるが、「脳が決める」という上記図式は、〈起点〉を脳に移植したものにすぎない。それはいわば「脳の擬人化」(→第四章第5節)であって、自由意志をめぐる哲学的問題はまったく解消されていない。

 脳を操作することでより良い社会を実現するといった図式も同様であり、そこでは脳操作をする何らかの〈起点〉が考慮の外に置かれている。詳細はあとに譲るが、ここでは次の問いを見ておこう。医師や政治家の判断によってある人物の脳が操作され、より良い社会が実現されたとして、その判断はどのように行なわれたのか。医師や政治家の脳によって? しかし、それらの判断も自然現象の一つならば、いったいだれ(何)が〈起点〉となって、未来のあり方を決めたのか。そもそもこの世界には、決める側丶丶丶丶に立つだれかなど存在するのか。

 さきほどの引用における「ダイヤルをセットする意欲がわくように、大脳皮質への刺激をダイヤルする」という一節からも、これと同様の疑問を読み取ることができる(2)。「ダイヤルをセットする意欲がわく」ようにダイヤルをセットするのはだれ(何)なのか。選択の〈起点〉となるような何ものかは存在しえないのではないか。ここからわれわれは、不自由なものとしての人間から無自由丶丶丶なもの――自由でも不自由でもないもの――としての人間へと視線を移していくことになるが(→第四章第1節)、そのためには先行する議論を順に追っておかなくてはならない。いまは本書の全体について、次のように述べるに留めよう。本書はいわば、自由の外部にある世界をできる限り精確に写しとり、そちらの側から人間にとっての自由を眺望するための本であるが、「自由の外部」とは不自由ではなく上述の無自由のことである。

 

議論の背景

 自由をめぐる哲学的論争は、ホッブズのような比較的最近の丶丶丶論者を始点にとっても、すでに三百五十年以上の歴史をもっている(3)。自由の議論には階層性があり、その全体像を捉えるには、それぞれの階層を切り分けることと、切り分けすぎないことがともに必要である。異なる階層における「自由」の意味を混同せず、同時に、複数の「自由」のあいだの依存関係に留意しなければならない。本節ではまずこの点を概観し、本書全体の構成については、次節で改めて述べることにしよう(本節で使用されているいくつかの専門用語については、第一章以降にて適宜、より詳細な説明を加える)。

 最初になされるべきなのは、したいことを妨害されずにする自由と、何をするかを自ら決める自由との区分である。大まかに言えば、前者は社会的に承認される自由(liberty)――たとえば恋愛結婚の自由――に対応し、後者はいわゆる自由意志(free will)に対応する。私が水を飲みたいと思い、何の妨害もなしに水を飲めたなら、前者の意味で私は自由である(他者による身体拘束のような分かりやすい妨害だけでなく、水を飲むことを禁じられた場所であったり、水を購入する費用がなかったり、あるいは身体の障害ゆえに水を口に運べない場合も、ここでの「妨害」に含まれる)。他方、水を飲むことに決めたのは私であり、私以外の何ものかによってその意志をもたされた――たとえば催眠術によって――のでないなら、私は後者の意味で自由である。ただし、この説明はやや曖昧であり、もう少し細部を補わなければならない。

 自由意志の働きが認められるのは、私がほかならぬ自分の意志によって行為するときだ。自由意志の存在を擁護する人々が確保したいのは、その意志が行為選択の〈起点origination〉となったという意味での〈起点性〉であり(4)、さらには、現実になした以外の選択も可能であったという意味での〈他行為可能性alternative possibility〉である(5)。それゆえ自由意志はしばしば、催眠術のような個別の意志操作にとどまらない、世界の決定論的なあり方との関係のもとで論じられてきた。もしこの世界が何らかの意味で決定論的――何が起こるかがすべて決まっている――であるならば、そのことによって自由意志は損なわれるというわけである。

 これに対し、したいことを妨害されずにする自由のほうは、決定論的世界においても成立しうるように見える(6)。たとえ私の行為や意志が、物理学や心理学などの法則のもとですべて決定論的に生じるのだとしても、水を飲むことを意志して妨害なしに水を飲んだなら、私は自由に水を飲んだと言える。先に名を挙げたホッブズはこうした自由論の提唱者であり、決定論と自由はともに成立しうるという「両立論」の代表的な先駆者である。

 したいことを妨害されずにするという、決定論と両立しうるこの自由のことを、「両立的自由」と呼ぶことにしよう。この種の自由と決定論の両立を「自由意志丶丶と決定論の両立」として叙述する論者もいるが(7)、そこでは「自由意志」という語に独特の意味づけがなされており、それ自体が論争含みのものである。本書では、語の多義性による混乱を避けるためにそうした叙述はせず、「自由意志」という語は断りのない限り、起点性や他行為可能性を意図した伝統的な意味合いのもとで用いる。

 両立的自由は決定論と両立しうる丶丶丶自由であって、非決定論と必ずしも衝突はしない。両立的自由と見なされるものの大半は――その具体例は第二章にて見る――決定論的世界と非決定論的世界のどちらにおいても成立する。それゆえ、ある非決定論者が自由意志の存在を認めつつ、同時に、両立的自由の存在も認めることにとくに矛盾はない。ただし、すぐあとに記すように、自由意志の擁護者にとって両立的自由は副次的なものである。

 自由の哲学的論争は、両立的自由と自由意志の二分を軸に、さまざまな方向に展開される。その論争史はいわば、両立的自由と自由意志との対立丶丶の歴史とも言えるが、しかしここで次の点をおさえておくことは重要だろう。両立的自由こそが自由の中心的概念だと考える論者は、自由意志を非実在的な幻想(たとえば社会的な因習のようなもの)と見なすことが多いが、自由意志の実在を認めることも原理的には許される(8)。他方、自由意志の擁護者はほとんどの場合、両立的自由が実在しないとは考えていない。両立的自由はたしかにあるが、それはいわば「表層の自由(9)」にすぎず、自由意志のようなより深い自由があってこそ両立的自由も真の丶丶自由の発露と見なせる――、こんなふうに彼らは考える。

 それゆえ、両立的自由と自由意志との対立は、一方が他方の実在を否定するという単純な図式にはなっておらず、真の自由とは何かをめぐっての主導権争いと見ることができる。両立的自由こそが自由の核心であるなら、自由意志は幻想であるか、あるいはあっても二次的なものであろう。反対に、自由意志こそが自由の核心であるなら、両立的自由は自由意志のもとでこそ意味をもつ、二次的なものであろう。この主導権争いのなかに、決定論の正否をめぐる論争が入り込み、意見の組み合わせに応じていくつかの諸説が得られる。

 たとえばホッブズは決定論が正しいと考え、自由意志の実在を否定したが、両立的自由こそを自由の核心と見なしたため、人間は自由であると述べた。この考えは、今日では〈柔らかい決定論soft determinism〉と呼ばれる立場に属する。一方、決定論を認めつつ自由意志こそを自由の核心と見なすなら、人間は自由ではなくなるが、こちらは〈固い決定論hard determinism〉と呼ばれる。その他、決定論を拒否し、自由の核心となる自由意志の実在を擁護する説は〈自由意志説libertarianism〉と呼ばれる(10)

 近年の論争状況としては、過去の議論の精緻化に加え、両立的自由と自由意志の双方について別の「味つけ」の余地が論じられている。それぞれの自由の核心となる部分を、従来とは別の角度から特徴づけようという試みである。両立的自由については、妨害なしにしたいことをするだけでなく、ある(実効的な)欲求をもちたいという「二階の欲求(意欲)」を実現しうる点や、行為者に怒りや感謝といった倫理的態度を差し向ける点(そこでなされる責任帰属を通して自由が捉え直される)、あるいは、自然淘汰によって獲得しうる適切な行為のシミュレーション能力をもつ点に自由の本質を求める動きがある(11)。他方、自由意志については、「意志」という表現にこだわらず、行為者そのものに自由の起点性を認めようという〈行為者因果説agent-causal theory〉と呼ばれる議論があるし(12)、他行為可能性のみに注目して――自由意志については直接に語らずに――他行為可能性の一種と決定論との両立を主張する議論もある(13)

 これらはどれも興味深いものだが、あらかじめ次の点を述べておくことは有益だろう。責任帰属のような倫理的実践は自由と密接な関係にあるが――われわれは自由な主体にこそ責任を問うものなので――責任帰属の分析は自由の分析と同じではない。美濃正の言う通り、前者を後者の代替とする議論には以下の危険も伴っている。「そもそもそれは、まず帰責可能性の条件を析出し、次いでその条件を自由の成立条件でもあると主張する、という一般的戦略を採っているものとみなされる。しかし、たとえ帰責可能性が自由を含意するとしても、その逆の含意は成り立たない(少なくとも成り立つかどうか明白ではない)。したがって、析出された帰責可能性の条件が自由の成立条件としては余計な要素を含んでいる丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶危険性が、じつははじめから伴っていたのである(14)」。このことは自明に思われるかもしれないが、実際には見逃される事例も多く、対話の混乱の一因となっている(15)

(以下略)

 

■注

(1) P. K. ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』, 朝倉久志訳, 早川書房, 1977, p.12, 省略引用者。

(2) P. K. ディックによるこの一節は、H. G. フランクファートの言う「二階の欲求(意欲)」の構図で理解することもできる(H. G. Frankfurt, “Freedom of the Will and the Concept of a Person”, Journal of Philosophy, 68 (1), 1971, pp. 5-20. 〈邦訳〉「意志の自由と人格という概念」近藤智彦訳, 門脇俊介+野矢茂樹編・監修『自由と行為の哲学』, 春秋社, 2010, pp. 99-127.)。すなわち、ダイヤルをセットする意欲がわくようにダイヤルをセットすることは、ダイヤルをセットするという一階の欲求をもつことに関する、二階の欲求によってなされた行為だと見なせる。しかし、このように考えた場合にも、「無自由」についての第四章での論点は消えない。

(3) その論争史の優れた解説は多いが、それらのうち、ここでは、R. Kane, “Introduction,” in R. Kane (ed.), Free Will, Blackwell, 2002, pp. 1-26; G. Watson, “Introduction,” in G. Watson (ed.), Free Will (Second Edition), Oxford Readings in Philosophy, 2003, pp. 1-25; 美濃正「決定論と自由――世界にゆとりはあるのか?」,『岩波講座哲学 2 形而上学の現在』, 岩波書店, 2008, pp. 161-186; 野矢茂樹「序論」, 門脇俊介+野矢茂樹編・監修『自由と行為の哲学』, 春秋社, 2010, pp. 1-27. を挙げておく。このほか、古代ギリシアでの自由論から始まる、より通史的な解説としては、新田孝彦『カントと自由の問題』, 北海道大学図書刊行会, 1993, 第一章など。

(4) 第二章の一部となっている青山拓央「自由意志の非実在性」, 『山口大学哲学研究』, 14, 山口大学哲学研究会,2007, pp. 87-98. にて私は、この「起点性」を表現する意図で「自発性」という語を用いた。しかし、T. ホンデリック『あなたは自由ですか?――決定論の哲学』松田克進訳, 法政大学出版局, 1996(T. Honderich, How Free Are You?: The Determinism Problem, Oxford University Press, 1993. 邦訳)のように日本語としての「自発性」(原語ではvoluntary)を両立的自由の文脈で用いる論述もあるため、用語上の混乱を避ける意味で、本書では「起点性」という語を使用する(それに伴い、青山前掲論文を利用した本書の箇所についても「自発性」から「起点性」への書き換えを行なった)。とはいえ、起点性抜きの自発性――自分の意志を妨害なしに実現すること――を「自発性」と呼ぶこと自体に違和感を覚える人も多いだろう。

(5) 野矢前掲「序論」における「選択可能性」との訳語は、原語(alternative possibility)により忠実とも言えるが、本書では使用頻度の高い「他行為可能性」の訳語を選んだ。

(6) ただし、第二章第5節・第6節では、この一般的見解に疑問を投げかける。

(7) Frankfurt, op. cit. など。

(8) たとえば、両立的自由こそを第一義の自由と見なしつつ、この世界がたまたま非決定論的であるために、起点性や他行為可能性としての自由意志もたまたま(二次的な種類の自由として)存在するケースなど。こうしたケースはあまり言及されないが、両立論的な自由観と直接矛盾するものではない。

(9) Kane, op. cit., p.3.

(10) 「リバタリアニズム」とそのまま表記されることも多いが、本書では美濃前掲論文に倣って、「自由意志説」との訳語を使用する。なお同説と、政治哲学上のリバタリアニズム(自由主義)とはまったく別のものである。

(11) これら三つの試みについては、代表的な文献としてそれぞれ、Frankfurt, op. cit.; P. F. Strawson, “Freedom and Resentment”, Proceedings of the British Academy, 48, 1962, pp. 187-211, Reprinted in Watson (ed.) op. cit., pp. 72-93; D. C. Dennett, Freedom Evolves, Penguin Books, 2004. が挙げられる。

(12) 先駆的文献としてはR. Chisholm, “Human Freedom and the Self”, 1964, in Kane (ed.) op. cit., pp. 47-58. がある。近年の行為者因果説論者としてはT. オコナーやR. クラークが代表的であり、彼らの議論はしばしば、R. ケインの独自の自由意志説との比較のもとで論じられている(→第二章第1節)。

(13) D. Lewis, “Are We Free to Break the Laws?”, 1981, in Watson (ed.) op. cit., pp. 122-129. など。

(14) 美濃前掲論文, p.172, 強調引用者。

(15) 現代の科学の知見のもとで、本節で概観してきた議論にどのような意味があるのか。人間の予測可能性と結びついた認識論上の決定性と、世界そのものの在り方についての存在論上の決定性を峻別したとき、次の点は重要である。自由意志論にとっての基本的課題は後者の決定性との対立にあり、それゆえ、たとえば決定論的カオスに見られるような予測不可能性(認識論上の非決定性)は、自由意志と決定論との伝統的対立を直接解消はしない。そしてこの文脈においては、量子力学に関してさえ――存在論的に――決定論として解釈する余地はまだ残されている(H. Price, Time’s Arrow & Archimedes’ Point: New Directions for the Physics of Time, Oxford University Press, 1996; 森田邦久『量子力学の哲学――非実在性・非局所性・粒子と波の二重性』, 講談社, 2011. など)。この状況下で、決定論が正しい場合と誤っている場合の双方について丶丶丶丶丶丶中立的に議論を進めておくことは有益であろう。

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