ちくま学芸文庫

彼も形而上学者である
A・J・エイヤー『言語・真理・論理』解説

20世紀最大の哲学運動のひとつ論理実証主義の記念碑的著作『言語・真理・論理』。この哲学書の限界はどこにあったか、また、現在ここからくみ取れる刺激的な洞察にはどんなものがあるか。哲学者・青山拓央氏が鋭く読み解きます。

 何がどのように存在するかについて、経験的に検証できないことを曖昧な表現で論じている――。哲学史における多くの議論をこのような議論として捉え、それを「形而上学」と呼んで批判することは今日でもよく行なわれていることだ。しかし、哲学業界の外部からそういった批判をする人々のほとんどは、論理実証主義という運動の隆盛と衰退についてよく知らない。すなわち、その運動のメンバーが過去に苛烈な形而上学批判を行なったことや、彼らの形而上学批判の理論にさまざまな欠陥が見出されてきたことを知らない。その結果、すでに吟味され尽くした批判が、いまでも繰り返されることになる。
 論理実証主義はおもに一九二〇年代から一九三〇年代にかけて台頭した国際的な思想運動であり、科学的世界理解の旗印のもとで形而上学の排斥を訴えた。本書『言語・真理・論理』は、論理実証主義をおもに英米圏に広めた記念碑的著作である。エイヤーは本書の執筆時にまだ二十代半ばであり、若書きらしい熱気と猛々しさが本書の文体には溢れている。(なお、近年の邦語文献においては、エイヤーを「エア」と表記することが多い。)
 本書の基盤にある主張を簡潔に要約したならば、それは次のようになるだろう。――検証可能な文とは、観察によってその真偽を検証することのできる文(たとえば「地球は丸い」)であり、ある検証可能な文の意味を知っているとは、その文が表しているものの検証方法を知っていることだ。そして、検証可能な文と分析的な文(言語や論理の規則のみによって正しさが定まっている文であり、別の言い方をするなら、同語反復(トートロジー)であるために必然的に真である文)だけが本当に有意味な文なのであって、それ以外の文は無意味(ナンセンス)である。多くの哲学文献に見られる形而上学の文は、この点でまさに無意味である。これからの哲学者たちは形而上学の文を弄ぶのではなく、有意味な文の分析作業を担って科学に参与するべきだ――。
 エイヤーがこのように言うときに、「無意味」という言葉を文字通りの語義で使っている点には注意が必要だ。形而上学の文は、何の価値もないとか何の役にも立たないという語義において無意味であるというより、そもそも意味内容をもっていない点で無意味だということである。思うにこれは、ある形而上学の文についてそれは間違っているとする批判より、はるかに痛烈な批判だろう。なにしろ形而上学の文は、合っていることはもちろん間違っていることさえもできない、無意味な文まがいとされるのだから。
 いま述べた限りでのエイヤーの主張は、初期の論理実証主義者たちにも概ね共有されたものである。エイヤーの哲学的な独自性は、この主張をどんなふうに具体化し、どんなふうに発展させたかにあると言えるだろう。たとえば彼は本書のなかで、検証可能な文とはいかなる文であるかを、現象主義的な角度から説明していく。つまり彼は、経験の現象的内容である「感覚-内容」についての文を素材として、検証可能な文を構成しようとするが、この方針は他の論理実証主義者たちに必ずしも共有されていない。さらに本書では、「そのお金を盗んだことは悪い」といった倫理的判断に関する文についても独自性のある主張が展開されており、それは「非認知主義」と呼ばれるメタ倫理学説の先駆けとなっている。こうした点で、本書を論理実証主義の標準的な教科書と見なすことには一定の注意が必要だろう(このほか本書では、ウィトゲンシュタインやラッセル、あるいはヒュームといった、論理実証主義者以外の哲学者からエイヤーが得た着想も、議論のなかに自由に混ぜ込まれている)。
 論理実証主義の隆盛はおもに一九三〇年代までであり、影響が世界に広まっていく際にある程度の時間を要したものの、一九六〇年頃にはだいたい終わった運動となっている。ここには政治的な理由もあるが、それ以上に、論理実証主義者たちの性急で断定的な議論にさまざまな不整合があったことが大きい。たとえば、検証可能な文の定義一つをとっても、論理実証主義の狙いを生かしつつ科学研究の実践と整合するような定義を、彼らは共通見解としてうまく提示することができなかった。その定義は厳しくなりすぎてしまう――科学の現場で使われている文さえ無意味と見なさざるをえなくなるほどに――か、あるいは緩くなりすぎてしまうのが常だった。
 本書の第一章において、エイヤーはこう書いている(彼は「命題」という語で、文が表しているものを指している)。「命題は、その真であることが、経験において決定的に確立される場合、そしてただその場合のみ、言葉の強い意味で検証可能であるといわれる。しかし、経験がその命題をありそうな(probable)ものとみせることが出来るという場合には、その命題は、弱い意味で検証可能なのである」(二〇頁)。
 エイヤーは、検証可能な文の定義において、弱い検証可能性のほうを念頭に置く。法則性を述べた全称文(たとえば「すべての人間は死ぬ」)や、歴史的なことがらを述べた文(たとえば「関ヶ原の戦いでは徳川家康が勝利した」)のように、強い意味での検証が明らかに不可能でありながら、有意味と見なすべき文は多い。また、エイヤーはそもそもの一般論として、いかなる命題も強い意味で検証することは不可能であり、せいぜい高度な確からしさをもつことができるのみである、と本書で述べた。つまり、どれほど正しそうな命題も、一種の仮説だということである。
 こうしてエイヤーは、弱い意味での検証に分析の焦点を合わせたうえで、それを以下のように定義する。なお、この定義において言われている「事実命題」とは弱い意味で検証される命題のことであり、「経験的命題」とは、現実の観察や可能な観察を記録した命題のことである。「ほんものの事実命題のしるしは、それが一個乃至任意の有限個数の経験的命題に等値であることではなく、単にそれと他のある諸前提との連言からいくつかの経験的命題が演繹され、しかもこの他の諸前提のみからは演繹されえないことである」(二三頁)。
 エイヤーによるこの定義は、次のような仕方で批判された。――この定義に従えば、ありとあらゆる命題が事実命題になってしまう。たとえば、「無が蒸発する」が表すものを命題A、「地球は丸い」が表すものを命題B、「無が蒸発するならば、地球は丸い」が表すものを命題Cと置こう。そして、この命題Bは経験的命題であることを認めておく。すると、命題Cを前提としたとき、その前提のみからは導かれない命題B(経験的命題)が、その前提と命題Aとの連言からは導かれるのだから、命題Aは定義によって事実命題であることになる。ここでは、「無が蒸発する」という意味不明瞭な文をわざと例にとったが、この文だけでなく任意の文について同様のことが言えるのだから、この定義はいかなる命題であろうと事実命題にしてしまうはずだ――。
 本書初版の出版から約十年後に書かれた〈第二版における序論〉(この文庫版にも収録されている)において、エイヤーはこの批判を受け入れている。そして定義の修正を試みるが、修正されたその定義についてもアロンゾ・チャーチによって新たな批判が寄せられることとなり、結局、エイヤーは検証可能な文とは何かを適切に定義することができなかった。ここにあるのは、定義の仕方をめぐる些末な表現上の問題ではなく、経験の現象的内容をもとに科学的な文を構成しようとする際に向き合わざるをえない本質的問題である。つまり、法則性を表す全称文のほか、傾向性を表す文、条件法を表す文、現実と異なる反事実的な状況を表す文、等々、科学にとって重要な種類の文を、経験の現象的内容をもとに構成することの困難があるわけだ。この困難は、因果や確率についての文の構成にも直に関わってくるものである。
 一般論として、自分の感覚-内容のみから世界を記述しようという態度は、世界について語れる範囲を極端に縮小させてしまう。そもそも感覚-内容は、いま、ここによる限定を受けており、それゆえ、いま、ここを超え出たことがらはすべて――エイヤーの表現で言うところの――形而上学の領域に押しやられかねない。たとえば、自分が見ていないときに隣の家が存在することも、十年前に地球が存在していたことも、あるいは他者に意識が存在することも。エイヤーももちろんこの点には配慮し、現実の感覚-内容に加えて可能的な感覚-内容を科学的記述に利用しようとするが、彼はそうした議論のなかで無自覚な形而上学者になっている。このことについては、この解説の最後で改めて述べることにしよう。
(日本の著名な哲学者である大森荘蔵についてひとこと。大森は断じて論理実証主義者ではないが、論理実証主義の影響を彼なりの仕方で受けており、そのうえで、いま、ここを超え出る認識の問題に関してきわめて敏感であった。「立ち現れ一元論」と呼ばれる大森の議論は、この問題を彼なりに克服しようとした奮闘の成果と言える。)

 さて、本書は初版の出版からすでに八十年以上が経ち、同時代の他の哲学書に比べても徹底的な批判に晒されてきたと言える。それでは、多数の批判によってすでに乗り越えられたかのように見える本書を、いま改めて読むことにどのような意義があるのだろうか。私の考えるその意義を、以下では三つ挙げることにしよう。
 第一に、本書で述べられたアイデアは、今日、たんに打ち捨てられてしまったのではなく、分析哲学や科学哲学のさまざまな文脈に影響を残している。なかでも、のちに「情動主義」と呼ばれることになる本書第六章での議論は、メタ倫理学における「非認知主義」の先駆けと見なすことができ、近年の学術論文においてもしばしば言及されている。エイヤーはその議論において、倫理的判断や価値判断に関する文も真偽の問えない無内容(ナンセンス)な文であるとし、そうした文はその使用者の情動を(たとえば、ある窃盗について倫理的に憤っているという情動を)表出し、さらには情動の表出によって他者に特定の行動を促すものである、と主張した。そして、自分のこの主張が、倫理的判断は主観的感情に基づくとする既存の説とどのように違うかを明確化していくが、その一連の議論はいま見ても瑞々しさを保っており、読者に刺激を与えてくれるものである。
 第二に、歴史的な観点から見ても、本書には特別な価値がある。二十代のエイヤーは、論理実証主義の中心地であったウィーンに留学し論理実証主義のエッセンスを学んだが、そのエッセンスについての本書での解説は、エイヤーなりの多くのアレンジを経ている。ところが、本書が英米圏で学術的なベストセラーとなったとき、本書は論理実証主義の代表的な教科書として受容されてしまった。このことは、のちの英米哲学の発展に無視できない影響を与えたのだが、こうした歴史的経緯については哲学史家の研究が続けられており、たとえば二〇二〇年にも The Historical and Philosophical Significance of Ayer’s Language, Truth and Logic という論文集がPalgrave Macmillan社から出版されている。
 第三に、これは本書の狙いにとって皮肉なことかもしれないが、本書の理論的欠陥を丁寧に確かめていくことは、形而上学の価値や必要性を私たちに再認識させてくれる。本書における形而上学批判の失敗は、いわば背理法的に、形而上学にまったく依拠することなしに科学的知識を得ることの困難を教えてくれるからだ。
 ここでいったん、蔑称として用いられたのではない「形而上学」の語義を確認しておこう。『岩波講座 哲学2 形而上学の現在』(岩波書店)所収の中畑正志の論文では、「形而上学」の名のもとに哲学者たちが何を論じてきたのかを二つに分けてこう説明している。「(A)存在するもの全般にかかわる特質を追求し、ものの同一性、個と普遍、事物と事実、ノミナリズムとリアリズム、そして時間と空間や因果性などの主題を論ずる。/(B)存在するものの究極の原因や根拠を追求し、世界(宇宙)の存在の根拠、またこれに関連して偶然と必然、目的論、そして神などを論ずる」(一〇頁、改行を「/」で表記)。
 こうした形而上学の実践においては、経験的に検証しがたい文がたしかに現れてくるだろう。だが、それは必ずしも否定されるべきことではない。形而上学に関わる検証困難な文も、他のさまざまな文と合わさって一つの理論を形作ることにより、具体的な検証に寄与しうる。たとえば、ものの同一性をいかに規定すべきかに関わる文は、それ単独では検証困難であっても、ある具体的な検証を下支えする理論の一要素となりうる。いや、なりうるどころか、有益な検証というものは、多かれ少なかれ、同一性や因果性や偶然性といった諸概念のネットワークに依存しており、そこでは一種の形而上学が機能しているだろう。具体的な検証の現場において形而上学がまったく意識されないとしたら、それは、何らかの形而上学がその現場をすでに席巻し、観察や実験を進めるうえでの暗黙の常識と化しているからである(このとき、その常識は他の検証の現場でも常識であるとは限らない、ということに意識的になれるのが、形而上学を学ぶことの一つの価値と言える)。
 エイヤーによる本書での形而上学批判は、歴史の審判に耐えられなかった。しかし、私の理解では、これはエイヤーの形而上学批判がたんに不十分だったということではなく、彼もまた無自覚な形而上学者であったことの反映でもある。たとえば、第三章で記された「感覚-内容の主観性と物質的事物の客観性を調和させなくてはならないという困難」(七二-七三頁)は、現象主義的な彼の哲学にとってまさに克服すべき困難であった。そして彼は、「実体」等をめぐる形而上学の排除によってその克服が果たされるかのように語ったが、彼はそこで無自覚に、「可能的な感覚-内容」をめぐる別の形而上学に依存している。現実に生起したのではない――ゆえに検証の対象になりえない――反事実的で可能的な感覚-内容についての形而上学に、である。
 この観点から見たときに、本書でとくに興味深いのは第七章「自己と共通世界」だ。私の見る限り、同章でのエイヤーの叙述は本書全体のなかでもっともぶれており、だからこそもっとも啓発的である。いまは紙幅が限られているため、読者が同章を読み解くための手掛かりのみをいくつか挙げて、この解説を終えることにしよう。
 エイヤーは同章で、〈他者も意識をもっており、他者と自己とは共通の世界に住んでいる〉ことを十分に信じる理由があるとしながらも、〈他者も意識をもつ〉ことが形而上学的な仮説となるような「他者」の語義に接近してしまっている。彼はそちらの「他者」の語義を行動主義的な観点から消そうとするが、その成否はともかく、彼の論じる感覚-内容とはいったいだれの感覚-内容なのか。エイヤーは「自己」の概念も感覚-内容から論理的に構成されると述べるが、これはいま見た問いに対する真の答えにはなっていない。ここで本質的なのは、(身体の個別性に基づいて)自己と他者とがある感覚-内容から異なる仕方で構成されるのだとしても、この構成に先立つ意味で、その感覚-内容はだれのものなのか、ということだからだ。それが私のものであり、他者はまた別の感覚-内容をもつのなら、〈他者も意識をもつ〉ことは形而上学的な仮説となるだろう。そして、それがだれのものでもなく、とにかくそれだけが現実に生起しているもののすべてであるならば、本書の哲学を支えているのは独我論の一形態となるだろう(この点については、次著における無主体論の解説が参考になる。入不二基義『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』、NHK出版)。
 

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