ちくま文庫

キリスト教の戦慄すべき現実
架神恭介『仁義なきキリスト教史』

12月刊、架神恭介『仁義なきキリスト教史』の解説を公開いたします。キリスト教をあくまで人間の営みとして描くということはどういうことでしょうか?

 ここ数千年の人類史のなかで、後の世界にもっとも広く深い影響を与えた人物を挙げるとしたら、誰だろうか。
 何を基準に考えるかにもよるが、有力な候補として、釈迦、イエス、ムハンマドなどの宗教家が挙げられることは間違いない。彼らは、良くも悪くも、世の多くの人々の命や生活を左右してきたし、今後もそうであり続けるだろう。宗教の影響力は、電球や飛行機などの発明より強烈だと言っても過言ではない。
 なかでもキリスト教は、世界最大の宗教である。今も約二三億人の信者がおり(イスラム教徒は約一七億人)、人類の三人に一人はキリスト教徒だ。この宗教は、世界中で学校、病院を運営するなど、教会外でも広く事業を行っている。戦争、虐殺、奴隷制、差別を正当化してきた一方で、それらに対する批判の急先鋒にもなった。また、文学、美術、音楽においても豊かな成果を生み出すなど、破壊的な面と創造的な面をあわせもっている。
 イエスの誕生時期を起点にした西暦は、日本でも普通に用いられているし、「目からうろこ」など、聖書に由来する慣用句も日本語として定着している。日本のキリスト教徒数は総人口の約〇・八%に過ぎないが、それでもクリスマスによる経済効果は莫大だ。キリスト教という宗教は、それを信じるか、信じないか、好きか、嫌いかに関係なく、とにかく強力な文化であることは認めざるをえない。
 しかし、その一方で、キリスト教は何とも不可解な宗教でもある。イエスは処女マリアから生まれたとか、病人を癒したとか、わずかなパンと魚を数千人に分け与えて満腹にさせたとか、十字架で処刑されたというのはともかく、その三日後に復活したとか……。福音書にあるのは、いかにも作り話といったエピソードばかりだ。なぜそれを簡単に「信じる」ことができるのだろうか。
 教義も難解だ。例えば「三位一体」である。キリスト教は一神教で、神は一つだとする。だが、天上の超越神である父なる神の他に、子であるイエス・キリストも神であり、聖霊も神である。それでも「三つの神」とすることはかたくなに拒否し、一人格の三つの位格だとする。三つだが一つ、一つだが三つだと言い張るのだ。
 こうした、自分たちでさえ実はよくわからない議論をめぐって、キリスト教徒たちは互いに武器を持って争ったこともあった。それから後も、カトリックとプロテスタントがあるいはプロテスタント同士が、別の些細な問題でめちゃくちゃな闘争を繰り広げてきた。やくざからも「お前ら、そんなことで喧嘩するな」と言われそうである。
 さて、架神恭介氏による本作『仁義なきキリスト教史』は、そんな不思議で壮絶なキリスト教の歴史を、やくざの世界に模して描いた小説である。
 本作でまず面白可笑しいのは、キリスト教用語のやくざ用語への置き換えだ。例えば、ここでは「信仰」は「任侠道」とされる。そして、キリスト教で「教会」というのは、礼拝をする建物を指すこともあるが、多くの場合はむしろ教派や組織そのものを指す。そのことを架神氏は、「「教会」というのは極道用語でやくざの共同体を指し、ほぼ「組」と同義である」と巧みな解説をしている。
 イエスの弟子は、普通は「十二使徒」と呼ばれるが、本作では「取り巻きのチンピラ」で、パウロは「キリスト組を代表する大侠客」だ。免償符や償いは「落とし前」であり、ニカイア公会議での議論を「イエスのキャラ設定の問題」としているのも、なかなか秀逸である。
 本作は、生真面目なキリスト教徒からすれば大胆で挑発的な作品に見えるかもしれないが、架神氏がとても冷静に聖書を読み、キリスト教史を十分理解された上で執筆に取り組まれたことは一読して明らかである。ご本人はキリスト教徒ではないようだが、傍目八目とも言うように、自称キリスト教徒よりも、非キリスト教徒の方が、その本質を鋭く見抜くことがあるようだ。本作における歴史理解には偏見もなく、登場人物の思想的差異に関する描写も的確だ。
 例えば、第8章「極道ルターの宗教改革」である。そこで書かれているルターの「任侠道」の新しさ、あるいは「伝統的やくざ観」の否定に関する次の説明部分は、なかなかうまいと思う。


「大親分は一方的に自分たちを「任侠道にきちんと適ったやくざである」ということに〈してくれている 〉のである。実際に任侠道に適っているかどうかは別として、大親分はそういうことにしてくれるのだ。だから、そんな大親分を信頼していればそれでいい。自分の力で何かを成し遂げて、その働きを大親分に認めてもらい、「おどれも男になったのう」と褒められることでやくざとして大成する……。そのような伝統的やくざ観をルターは否定したのであった」

 この箇所は、神学用語では「信仰義認論」と呼ばれるものにあたる。人が義とされるのは、何か正しい行いをしたからではなく、教会の伝統に盲従したからでもなく、「ただ信仰によってのみ」だ、というルターの思想の中心部分である。
 同じ8章の「解説」部分で、架神氏は「私見だが、ルターはパウロに似ている」と指摘しているあたりも興味深い。両者には共に「信仰に対する真剣さや危険を前にしての糞度胸」があるなど、良い面での共通性があるとする。だが、同時に「知的なようでいてどうにも話が通じそうにない雰囲気など、うんざりする様々な側面」も似ている、としているあたりは、一般のキリスト教徒からは決して出てこない鋭い指摘である。
 別の章で書かれている「皆がパウロになった世界はあまり想像したくない」という一言からも、著者の感度の良さがうかがえる。「パウロ書簡というものは恐ろしく居丈高で傲岸不遜な内容なので、読んでいると嫌気が差してくる」と正直に書かれているところを読んだ時、私は思わずニヤリとしてしまった。私もこれにおおよそ同意するものであるが、一般のキリスト教徒たちも、こうした架神氏の率直な感想に何らかの返答を考えてみてはいかがだろうか。
 架神氏はキリスト教史を、「二千年間にわたる血と惨劇の闘争史」だと述べている。確かにその通りである。現代日本のキリスト教徒たちは、自分たちとやくざの世界はまったく無関係だと思いたいだろう。だが、やくざからすれば、少なくともある時期においては内部で争い続け外部に対しても攻撃性むき出しだったキリスト教徒の方が、ずっと非道な連中だ。キリスト教は歴史が古いぶん、その暴虐のスケールもビッグである。彼らと比べれば、自分たちやくざの方がはるかに善良でおとなしいとさえ思うであろう。
 だが、私が架神氏の本作に関心をもち、また感心したのは、彼がそうしたキリスト教のネガティブな面を直視しているからというだけではない。それはむしろ、表面的な事柄過ぎない。重要なのは、キリスト教世界をやくざの世界として描くことで、それを多くの宗教の一つとして相対化するのみならず、「人間ならではの営み」というさらに根本的なレベルでも相対化してみせた点である。
 思わず吹き出してしまうユーモラスな描写は、確かに本作の大きな魅力である。だが、「キリスト教徒のやくざ化」による効果として本質的なのは、読者にキリスト教徒の営みを冷静に見直させるのみならず、根本的な「人間のおかしさ」を眺めさせるような仕掛けになっているという点である。
 宗教は、いくらこの世を超えた崇高なものについて語ろうとも、その営み自体は、所詮は人間によるものである。世俗的なものに過ぎない。だからそこには、泥臭い要素やネガティブな面がつきものである。キリスト教は、「救い」を主張する。しかし、キリスト教史を通して認めざるをえないのは、キリスト教は「救い」を必要とするのに救われない人間の哀れな現実を嫌というほど見せつける世俗文化だ、ということである。
 そうした、あたり前といえばあたり前の現実は、そのまま率直に口に出すと角が立つのだが、本作では「やくざ化」によって嫌味なくそれを表現できているように思われる。宗教もやくざも、お金、面子、権力、信念、命などへの奇妙なこだわりをめぐる壮絶な営みだという点ではよく似ている。どちらも、傍から見れば、なぜそんなことにこだわるのか不思議に思ってしまう点があるが、本人たちは真剣なのだ。わけのわからないプライドや、信仰や、組織のルールに大真面目にこだわり抜き、時にはクレイジーな行為に邁進できるからこそ、人間は人間であり、他の動物とは違うのだ。
 イエスがどんな人物であったか、もはや正確なところはわからない。しかし、それにもかかわらず、約二千年ものあいだ、一生を賭けて彼の言葉を伝えようとする人が、毎年、かなりの数、世界中で、生まれ続けているのである。これは素直に、驚くべき現実ではなかろうか。現代のいわゆる「組長」たちも、そこまでの影響力はあるまい。
 教派や立場にもよるが、キリスト教の宣教師の中には、結婚をして家庭をもつことも、ごく人並みの贅沢をすることも、死ぬまで禁じられる場合がある。さらには、未開の地、治安が極度に悪い国に赴任するよう命令され、そこへ渡り、苦労して生活し、宣教し、あげくの果てに地元のゴロツキやゲリラなどに殺されて一生を終えるという例も珍しくない。キリスト教世界には、やくざや軍隊よりも過酷な一面がある。
 そう、確かにいまだにキリスト教には、やくざを超えた恐ろしさもある。ただし、ここで言う「恐ろしさ」というのは、悪い意味ではない。キリスト教にはネガティブな面もあるけれども、同時にその信仰は、普通ではありえないような、驚くような形で人を生かすことが現にあって、それには震撼させられるという意味である。
 キリスト教徒のなかには奇人変人もいて、キリスト教史にはむしろそうした人物の方が多いようにも見える。だが、その一方で、豊かで平穏な生活を捨て、貧しい人のために一生を捧げた人も少なくない。高度な学問を修め、将来を期待されたにもかかわらず、残りの生涯を見捨てられた難病の人々と共に過ごした人もいる。また、会ったばかりの見ず知らずの人を助けるために、自分の命を投げ出した人もいる。
 マザー・テレサの活動は特に有名だ。今でも彼女のつくった施設には、毎日世界中からボランティアが集まっている。だが、マザー・テレサのような生き方をしている人物、あるいは彼女をも越えるような生き方をした人物は、実はけっこう多いのである。
 イエスとその影響下にある人々を通して生き方を変えた人は、日本にも少なくない。脊椎カリエス、帯状疱疹、ガンなど次々と病気に苦しめられつつも、夫に口述筆記をしてもらいながら、人を慰め愛の意味を問いかける小説や随筆を多く残した女性もいる。
 ある体育教師は、クラブ活動指導中の事故で首から下が完全に麻痺してしまったにもかかわらず、口で筆をくわえて美しい絵を描くようになり、同じ筆で信仰の詩も書き、その言葉で人々に希望を与えるようになった。
 普通だったら人生に絶望するような境遇に置かれているのに、逆に周囲の人々を励ましたり、明らかに特別な才能や能力があるのに、お金や地位にこだわらず弱い人に寄り添ったりしているキリスト教徒が現にいる。
 そうした彼らの、壮絶な人生と、人間臭い生活は、ひょっとすると、やくざをも戦慄させるかもしれない。

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