「本をつくる」という仕事

校閲を大事にする会社
校閲はゲラで語る 第2回(全3回)

1月刊、稲泉連『「本をつくる」という仕事』から1章分掲載の第2回目です。 今回はお話では、熱気あふれる時代の出版社の空気にふれることができます。

文学の熱気あふれる出版社へ

 矢彦さんが新潮社へ入社したのは一九七〇年。
  街がざわついていた時代だった。
  高田馬場に借りたアパートから矢来町の社屋に歩いていくと、安保闘争の学生たちが大勢いた。入社前には機動隊に投石する一群に投げ込まれた催涙ガスを吸い込み、涙が止まらなくなったこともある。
  一九七〇年は一一月に三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを促し、割腹自殺を遂げた「三島事件」が起こった年だ。
  三島の作品を多く出版していた新潮社も蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、翌年にかけて三島作品が飛ぶように売れたものだった。矢彦さんはそのような時期に、校閲部員としての最初の一年間を過ごすことになった。
 長野県出身の彼は、高校生の頃から『古事記』や『万葉集』を読むのが好きな青年だった。現代文と比べて古典の授業が楽しく、一方で理系の教科は大の苦手。物理や化学の時間になると、いつも薪ストーブの番をして過ごしていた、と笑う。
卒業した松本深志高校はバンカラの校風で知られ、マイナス一〇度の雪の日であっても下駄をはいていた。『古事記』や『万葉集』を小脇に抱え、真冬の雪の上を下駄で歩く男。それが彼だった。
  大学では国文学を学ぼうと考え、國學院大學の文学部に入った。
学生時代に一度、角川書店で辞典編纂のアルバイトをした経験もあり、彼は何となく出版社で働くことを思い描くようになった。郷里の塩尻市(かつての筑摩郡)に筑摩書房を創業した古田晁がいたことも、出版業界に心ひかれた理由の一つだった。
  「角川はあの頃ちょうど景気が悪くて新卒採用はなく、筑摩もまた同じような状況でした。ただ、筑摩書房については同郷の縁で、古田さんから直接連絡をいただいたんです。すると彼はこう言うんですよ。
  『悪いが採用はできない。実はいま校正者が一人欲しいんだ。だが、校正という仕事――あれは大変に難しいから、経験者を採る。君のような新卒には無理なんだ。悪いな』
私はこのとき初めて『校正』という言葉を知ったんです。校正とは何ぞやと思ったのは、それが最初でした」
   彼が新潮社校閲部の入社試験を受けたのはその後、困り果てて訪れた学生課に求人票がきていたからだった。
  当時の就職活動は現在とは異なり、応募資格の中に「学長推薦」や「学部長推薦」が記載されていることがよくあった。推薦は「優」の数によって振り分けられる仕組みで、「カフカ全集」(可と不可ばかり)と自嘲していた成績では推薦を受けられなかった。
   相談を受けた学生課の職員はしばらく思案すると、「新潮社は推薦が必要ないから、君がいま受けられるのはここしかないな。ここを受けなさい」と言った。
  「そうですか……。分かりました」
  そうして去ろうとした矢彦さんに、職員はこう続けた。
  「良い会社だよ。家族的でね」
 新潮社は当時から編集部門と校閲部門の試験が分かれていた。
  例えば現在の試験問題は生原稿と活字で印刷されたゲラ刷りを読み合わせたり、ゲラ刷りのみの「素読み」で疑問点や誤りを指摘したりと、実際に校正の作業を行なうものだ。試験問題はそれぞれ小説とノンフィクションとが用意されている。加えて一般教養が出題される。矢彦さんの頃の試験には校正の実技はなく、学科は共通で作文の課題に文学系と言語系のものがあったという。
 面接では当時の佐藤亮一社長から、次のように聞かれた。
「君、大江健三郎はどうかね」
 ちょうど新潮社では数年前に大江健三郎の作品集を刊行しており、社長は大学生たちの評判を気にしているようだった。
   年配の役員の中で一人だけ四十代の彼は、全身に力を漲らせて鋭い視線を学生たちに向けていた。幸いにも矢彦さんはたまたま小説家志望の友人の家で作品を拾い読みしていたので、大江健三郎の作品について簡単に感想を述べることができた。
   小説誌には「第三の新人」と呼ばれた遠藤周作や吉行淳之介、そして、その次の世代に当たる石原慎太郎や開高健、大江健三郎といった名前が並んでいた。彼が佐藤氏からのこの質問を今も印象的なものとして覚えているのは、「文学が売れた時代」の熱気をそこに感じ取ったからでもあった。
   実際に新潮社に入社すると、その文芸色の強い会社の雰囲気にしばらく圧倒された。
 「とにかくベテランの編集者たちが怖くて」と矢彦さんは懐かしそうに言う。
 「何しろ編集者は作家よりも偉いという感じでしたから。煙草のけむりが立ち込める編集部では、斎藤十一さんや野平健一さんといった作家以上に有名な編集者がいて、泣く子も黙るじゃないけれど、作家も黙るという人たちでした。彼らに育てられた編集者たちからは、みな文芸を仕事にしていることを誇りにしている気持ちが伝わってきましたよ」
   彼らはみな小説家たちとの付き合いを何より大切にしており、本人もどことなく文学者のような風貌をしていた。そんな編集者たちは飲み屋に繰り出すと、夜中から朝まで作家論や文学論を闘わせていた。
  「いまはもうそうした雰囲気はありませんが、あの時期に校閲部に入った私にとっては、出版社で働くことの一つの原風景になっています」
矢彦さんはそう振り返りながら、当時の会社は「学生課で聞いたように家族的で、家内手工業的でした」と言う。
   特に小説誌は創業者の佐藤義亮氏の精神がまだ強く残っていたのか、「佐藤商店」の雰囲気が確かにあった。
   経営陣は一人ひとりの社員に親しく接し、例えば彼が所属していた『小説新潮』の編集部では、特別号が出版された日に金一封が出た。それは専務のポケットマネーのようで、机の引き出しから札束が出されると、編集部員に配られるのだった。
  「君たち、これで神楽坂に飲みに行ってきたまえ」
 入社二年目の駆け出しの校閲部員にも金一封が振る舞われたことに彼は感激したものだ。
   初任給が手取り三万八〇〇〇円だった時代。有り難く頂戴した五〇〇〇円を握りしめ、仲間たちと酒を飲んだ。そんな日々を送るうちに、彼は徐々に新潮社という出版社に親しみを覚え、信頼をおくようになっていった。

校閲に重きを置く社風

 現在、新潮社校閲部では新人社員の育成に一つの仕組みがある。
入社した新人校閲部員は多くの場合、まずは『新潮』や『小説新潮』に配属され、ベテランと相対して仕事を進めていく。
  「一時期は編集部員にも校閲部へ来てもらって、校閲の勉強をさせようという時期もありました。でも、編集者をやろうと意気込んで入社した若者に校閲をやらせても、右も左も分からずにぼんやりしているだけで、かえってダメでした。むしろ編集をやってからの方がその重要性が理解できる。そんなわけで、新潮社でも編集者は編集者、校閲は校閲と役割が明確に分かれていくようになっていったんです」
   原稿の誤りの傾向やチェックすべき点には、前述のように一定のパターンがある。
かつては生原稿のため書き間違いが多く、活版印刷の時代でもあったため、文選の段階で間違った字が拾われたり、活字そのものが不良品で文字がかすれていたりする箇所を指摘するのも重要な作業だった。ワープロが普及して以降は変換ミスを見つけるのにもコツがいるようになった。
   新人の部員は一年間ほど先輩校閲部員の仕事を間近で見ることで、基本的な校正・校閲の技術を身に付けていくという。ただ、『新潮45』(二〇一三年二月号)の特集「『出版文化』こそ国の根幹である」の中で、同社の常務取締役である石井昴氏が〈校閲者は入社後20年で一人前〉(「図書館の〝錦の御旗゛が出版社を潰す」より)と書いているくらいだから、それはその後の長い校閲部員としてのキャリアのほんの振り出しに過ぎない。
 矢彦さんが入社した時代は、いまのような社員教育のシステムはまだなかった。校閲部は社屋の四階にあり、『芸術新潮』と『新潮』の編集部と同じフロアだった。部にはあらゆる事典類や辞書、年鑑の類が山のように積まれており、部員が黙々と原稿とゲラ刷りを読み合せていた。
  「校閲というものがどのような仕事がほとんど知らず、何の経験もなかった」
そう語る彼は入社してすぐに、『マッカーサーの日本』というタイトルの分厚いゲラ刷りを渡された。『週刊新潮』に連載された二段組み約四〇〇頁の単行本で、これを手始めに校正してみよとのことだった。
  「でも、誰も仕事を教えてくれないのだから、すごい時代でしたよね。だから、本来であればノートをとりながら事実関係をチェックしたり、年号を調べたりするわけですが、最初はどうしたらいいのかも分からず、ただ眺めていたようなものでした。しばらくして部の進行係から『どのくらいまで進みました?』と聞かれ、『何をすればいいんですか』と聞き返す始末で……。結局、私が校閲の仕事を実践で学び始めたのは、『小説新潮』に異動してからのことでした」
  いまから振り返るとき、矢彦さんは同じ校閲部の先輩社員というよりも、むしろ編集部にいた編集者たちに校閲の技術を教わることになったと続ける。
  「というのも、私が入社した頃の小説誌の編集者は、担当作家の作品を自ら校閲していたんです。横で見ていると、最近のちょっとした校閲部員をはるかに凌ぐような校閲を、彼らはやっていたものです。私たちも編集者から『誰、これ読んだ人!』なんて叱られながらやっていた。校閲というものを重要なものであると考える人たちが、それだけ大勢いたわけです」
 それにしても、そのような「校閲」に重きを置く社風は、そもそもどこからきたものなのだろうか。
   石井昴氏も前述の同じ論考の中で〈校閲部は大部隊の社員を抱えている上に、外部の校閲者を動員して年間8億円もの経費がかかる〉と指摘している。なぜ同社は「校閲」という部門を、現在に至るまでそれほど大切にしてきたのだろう。
 そう訊ねると、矢彦さんは言った。
「校閲部門を大きくして、ほとんど全ての出版物を自社の校閲者が見るというシステム。新潮社にその伝統があるのは、創業者の佐藤義亮自身が編集者であると同時に、かつて印刷所に勤めていた校正者だったからだ、と言われているんです」

               次回は2月9日の更新です。
 

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