文学で身を立てる
新潮社の創業者・佐藤義亮は、日本の出版史における立志伝中の人物だ。
一八七八(明治一一)年、彼は秋田県仙北郡(現・仙北市)の角館町に生まれた。『佐藤義亮傳』(村松梢風著)によると、実家はその極寒の町で荒物屋を営んでおり、父親の為吉は棚に並べている商品に「論語」からとった言葉を付けている変わり者。地元では珍しいほどの読書家だったという。
その父が購読していた新聞や仏教雑誌を読みながら育った佐藤義亮は、青年になるとともに文学を志すようになり、博文館発行の雑誌『筆戦場』への投稿を始める。そんななか、日清戦争が勃発。新聞や雑誌に掲載される著名な戦場特派員の原稿を読み、〈血なまぐさい戦場も一管の筆によって人の心を躍らせ昂奮させる〉と知り、〈文學熱〉の昂ぶりを抑えきれずに学友の二人と一八歳で上京した。
初めの頃、新聞配達や牛乳配達で食いつないでいた彼はあるとき、市ヶ谷にあった秀英舎(現・大日本印刷)の印刷工場の入口に職工募集の張り紙を見つけた。それは奇しくも秀英舎が自社初となる活字書体「秀英体」を開発中の頃のことだった。
当初、佐藤義亮が所属していたのは印刷部だった。重たい取っ手で印刷機を回す運転係やインキの樽洗いという仕事は〈牛馬に等しい仕事〉だったが、日給わずか一五銭の労働を終えると、彼は工場から神楽坂にある書店に向かい、本や雑誌を貪るように読んだ。〈いってみれば、そこが義亮の書斎だった〉のだ。
そんな彼に転機が訪れるのは、田岡嶺雲主幹の文学雑誌「青年文」に「佐藤橘香」の名で投稿した一文が、投書欄のトップに掲載されたからだ。
彼はこのことを誰にも言わず、また、喜びを分かち合う友人もいなかったが、あるとき秀英舎の支配人に呼ばれたという。支配人の机には「靑年文」が置かれており、そのときの様子を『佐藤義亮傳』は次のように再現している。
「君は号を橘香というのかね?」
「はい」
「では、この青年文に掲載されている論文は君が書いたんだね?」
「そうです」
と、義亮は棒を呑んだように固くなってかすれ声で答えた。口の中には一滴の唾もな
くなったような気がした。
「やっぱり君だったのか。名文だ。僕は感心しきつたよ」
そういって、支配人は明るく微笑した。改めて「青年文」を手にとり、頁をめくりな
がら、君ほどの豊かな文藻のあるものを、最下級の職工で働かせておいたことは、僕
の不明であったと支配人はいった。
佐藤義亮はその日のうちに校正係に異動となり、日給はたちまちに二〇銭になったという。
校正係になれば、作家たちの原稿を直接手で触れて読める。秋田の寒村から文学で身を立てることを夢見て上京した一〇代の青年にとって、それはどれほどの喜びだっただろうか。
義亮は長い間憧憬の的だった尾崎紅葉、幸田露伴、山田美妙齋、齋藤緑雨をはじめ、文
壇知名人の原稿を傍らにおいて、その作品の校正にあたっているうちに、次第に出版事業に興味を持つようになってきた。(中略)校正係をやっているうちに、自然と出版や印刷のことが分ってきたし、文壇の動きも分ってきた。そうなると、出版事業に異常な興味が湧いて、新文學勃興の機会に乗じて文学雜誌をやつてみようと決心がついた。ここで初めて、義亮は確固たる生涯の目標を摑み得たのである(同書より)
彼はその後、〈焼き芋どころか、殘飯で飢えをしのいだことさえあったらしい〉という倹約生活で資金を貯め、その熱意を見ていた下宿の主婦・秀英舎の印刷部長の妻からの援助によって雑誌『新声』を一九歳で立ち上げた。このとき牛込に間借りした六畳の部屋が、今日の新潮社のそもそもの始まりとなった。
「要するに――」と矢彦さんは言う。
「佐藤義亮は文芸誌を立ち上げた時、印刷所出身だったからこそ、活字に対する異様なほどの情熱があったのでしょう。何しろ彼はその後も自ら朱筆を執って校正を長らくしてきたくらいですから。創業者自らが校正者であったことが。新潮社の伝統になったのだと思います」
思考の流れを感じる生原稿
矢彦さんは最初に『マッカーサーの日本』を校閲した単行本の部署に在籍した後、しばらくしてから『小説新潮』の校閲部員として本格的に経験を積んだ。
「小説誌を出せばばかばか売れる時代で、活気がありましたねえ」
司馬遼太郎、松本清張、黒岩重吾、水上勉、池波正太郎や五味康祐……雑誌に名を連ねる作家たちが書き下ろした原稿を、ゲラ刷りと読み比べる日々が続いた。
まだインクの匂いがするような原稿用紙を前に仕事をしていると、何とも言えない緊張感を覚えずにはいられなかった。
それは作家たちが手で書いた生原稿を前にした際ならではの臨場感だったのだ、と彼は思うことがある。作家たちの原稿を読んでいると、そこにはそれぞれの文字の形があり、筆圧の強弱を感じた。
「Aという文章に線が引かれ、Bという表現に直している。後の頁で同じ表現が出てきたら、著者はひょっとすると本当はBの表現をここでも使いたいのではないか、という思考の流れが分かるんです。昔はそうした手書きによる思考の足跡を読むことが大事だった」
いわば校閲の作業にとっての最大の資料が、彼らの生原稿だった。彼らの思考の流れを感じながら、自分も一緒になってその小説の世界に入っていくときの高揚感。「あれは貴重な体験だったし、そのことが校閲者たちを育てていったところもあったと思います」
だからこそ、校閲部員として生きてきた彼の胸には、作家たちの様々な生原稿が刻み付けられるように残っている。
例えば――柳生十兵衛などを描いた剣豪小説で知られ、太宰治と横綱・男女ノ川とともに「三鷹の三奇人」と呼ばれた五味康祐。
彼は原稿に直しを入れる際、普通であれば棒線を引いて欄外に訂正文を書くところを、別の原稿用紙に書き直して鋏で切り、糊付けをして完成原稿を工作のように作る人だった。さらに原稿には赤鉛筆と青鉛筆で「改行」「ツメ」といった細かな指定が書き加えられており、その丁寧さはかつて印刷所で働いた経験が活かされているようだった。鋏と糊を傍らに原稿を書く姿を想像すると、校閲の作業にも自ずと力が入った。
池波正太郎の原稿もまた、赤鉛筆と青鉛筆を活用して実に丁寧だった。
「あの人の原稿は最初のところに『ここは三行ドリ』と書けば、それですんでしまうような完成度でした。しかも早いんです。連載でも必ず一つ前の先のものを送ってくる。ストックが常にある状態で、仕事がしやすい人でした」
一方で大変だったのが松本清張や井上ひさしだった、と矢彦さんは言う。
井上ひさしは何より遅筆で、矢彦さんが『小説新潮』に在籍中は「また一行来ました」といった調子で編集者が印刷所へ入稿していくようなことがあったという。ただ、そのような入稿方法が可能だったのは、原稿の内容には間違いがなく、字も丁寧だったからだ。なかには書道の連綿体と同様にほとんどの字が繋がっているような作家、社内でも一部の部員しか解読できない悪筆の作家もおり、そんな芸当がそもそも不可能な場合も多かった。
「遅いと言えば、松本清張さんは遅い上に意外と原稿の中に誤りがあって、苦しい仕事になる局面もありましたね。意外だと思われるかもしれませんが、清張さんは東西南北と時間的な記述が大まかで、そこをしっかりと読んでおかないといけない。だから、私はあの人が『ゼロの焦点』を書いたとは未だに信じられないんです。本人は誤りを指摘しても『そうかそうか、直してくれたまえ』ですから、大らかな人でしたねえ」
そして、最後に彼の印象に強く残っているのが司馬遼太郎の原稿だ。
司馬遼太郎の原稿は七色に彩られていた。内容はほぼ間違いのない緻密さだったものの、原稿用紙にはびっしりと直しがいつも入っていた。そのやり方が興味深かった。彼は原稿用紙の中ほどに本文を書き、あらかじめ確保しておいた欄外の余白に直しを記入していた。その際に赤や青だけではなく、緑やピンク、紫のペンが使用されているので、原稿用紙は「まるで女の子の手紙」のようにカラフルだった。
「その原稿の字数を編集者が一生懸命に計算すると、だいたい一枚分の四〇〇字になっているんですよ。すごい特技でした。いったいこの人の頭の中はどうなっているんだろうと思いました――」
そうした個性的な作家たちと原稿を通してやり取りをするうちに、矢彦さんは校閲部員としてのやりがいや高い職業意識を得ていった。
編集者と当時に校閲部員もまた、作家の原稿を最初に読む読者であり、重い責任がある。しかも世の中に原稿を送り出す側にいる編集者に対して、校閲部員は読者の側に立って原稿を読むという重大な役割を担っているのだ、と。
「これは物事を知っていないと書き手に負けるな、と感じました。ゲラを通した闘いというのかな。あの人たちが分からないようなことを、こっちから指摘してやろう。そんな思いが湧いてきたんです」
誰もが真剣に作品を世に送り出そうとしていた。
作家が書き、編集者と校閲者が読み、そこで生まれる疑問に作家が答える。
それは著者のためであると同時に、何よりも読者のための仕事である。
彼は校閲を仕事とする者として、そのように自負するようになっていったのだ。
以来、四〇年以上にわたるキャリアのなかで、彼は『週刊新潮』や単行本、文庫と担当部署を渡り歩き、最後は新潮社校閲部の部長を務めた。
そして、いまもなお外部の校閲者として仕事を続ける彼は、その日々を振り返って言うのだった。「いま出版業界では、非生産部門である校閲部門は縮小しようという流れがあります。でもね、僕は校閲部こそが出版社の良心だと思っています。ネットがあって、あらゆる人が文章を書くようになったからこそ、その社会的意味は増しているのではないでしょうか」
校閲は出版社の価値であり、良心である――。
矢彦さんはそう言うと、酒の入ったグラスに口に付けた。
校閲一筋、四〇年――それが彼のたどり着いた結論である。