ちくま文庫

「異邦人」なのか……

ちくま文庫2月新刊から、高橋和巳著『消えたいーー虐待された人の生き方から知る心の幸せ』の解説をご紹介します。書き手は作家の橋本治氏です。 自らの体験から、率直に書いていただきました。「普通」とは何なのか、すべての人に対する重い問いかけです。

 こういう言い方をすると人を傷つけることになるのであまり言いたくはありませんが、実は私は被虐待児でした。そのことは重々承知していて、そのことに由来する身体症状もないので、この『消えたい』という本の文庫版の解説を書いてほしいという依頼を受けた時、たいして考えもせず「いいですよ」と了承してしまいました。「逃げずに直視すべきだ」というへんな気がしたからですが、読み始めてすぐに後悔をしました。「解説を書く」というような客観的な距離が取れません。情緒不安定な状態が三日ばかり続いて、しばらくは本を手にすることが出来なくなりました。

 私が「そのこと」に気づいたのは、小学校に入った年の二学期の最初の日でした。
 その日の夕方、母親は「来るんだよ!」と言って私の手を引っ張ると、家の外に連れ出しました。母親が突然逆上するのはいつものことで慣れていましたが、その時は「どこに連れて行かれるんだろう?」と思ってこわくなりました。
 連れて行かれたのは、家の近くにあった百坪ほどの広さの空地です。夏の終わりの空地にはススキのミニチュアのような夏草が一面に茂って、そこにトンボのミニチュアのようなウスバカゲロウが何羽も何羽も飛んでいます。薄紫の夕靄が辺りを覆って、空地の向こうにはよく遊びに行っていた田村さんの家の門灯の光が、明るく点っていました。
 その光景があまりにも美しいので、私はただ「きれい──」と思って突っ立っていました。すると、隣に立っていた母親が私を急き立てるように、「ほら、捕まえるんだよ!」と言って草むらの中に入って行きました。「ウスバカゲロウを手で捕まえろ」と言っているらしいのです。
 私は、草むらの中に入って透明な羽を持っているウスバカゲロウを追い散らしている母親を見て、「違う」と思いました。
 その頃の私は小学校というものに馴染めず、学校に行ったら身動きも出来ないような子供だったので、母親は私のことを「男の子らしい活発さがない」と思っていたのでしょう。「男の子はトンボ採りをするものだ」とでも思って近所の空地へ連れて行ったのでしょうが、私の思うことは「違う」です。「なんでこういうきれいなところに入って行って荒らさなけりゃいけないんだろう?」と思っていました。その時には持ち合わせていなかった大人の言葉を使えば、「価値観が違う」です。それでも、言われたことをしないと怒られるので、形ばかり草むらの中に入って行きましたが。
 母親はそれ以前から暴力的でした。うっかりしているとすぐ怒鳴られます。「よかれ」と思ってしたことでも怒られます。私には理由が分かりません。「自分にはなにか問題があるのかもしれない」とは思っても、それがなんなのかは分かりません。分かるのは、母親と一緒にいるとつらい思いをすることが多くて、母親がこわいというだけです。ところがその夏の終わりの日になって、やっと理由が分かりました。理由というか、自分の置かれている「あり方」です。
 母親は、自分とは違う世界観で生きていて、私はそういうものにまったく共感出来ません。「違うんだ」と気づいた瞬間から、自分は自分で「真」と思うような方向に生きて行こうと思いました。母親の愛情がほしいかほしくないか以前に、「自由になりたい」と思い、「自由になってもいいんだ」と思いました。ただ、そんなことを言っても叩かれるだけです。だから、「強くなりたい」と思いましたが、そう簡単には強くなれません。「お母さんは僕と違うんだ」と思っても、母親の暴力的な態度は変わりません。それで私は、その頃──小学校に入って三、四年ばかりの間の時期を思い出すのがいやです。直視しようとすると、「弱い自分」しか見えて来ません。実際はどうあれ、母親から与えられる評価は「だめな子供」ですから、自分のあり方に自信なんかは持てません。
 私は被虐待児だったはずですが、もしかしたら違うかもしれません。なぜかと言えば私は、「母親の思い込んだ錯誤を押しつけられている」ということをずっと自覚していたからです。その頃の私は「消えてしまいたい」とは思いませんでした。思うのはただ、自分の力なさに対する「情けない」という思いだけです。
 幸い私は三世代同居の多人数家族の中にいましたので、母親との関わりを最小限度にとどめることも出来ました。それでも突然、母親は怒声を上げてやって来ます。私は母親のいる家から距離を置きたかったので、家の外に人間関係を構築することを第一に考えました。家の近所に友達は大勢いたし、小学校の生活にも馴染んでしまいました。それで、自分でもなにか決するところがあったのかもしれません。小学校五年生の時、母の日に母親へカーネーションを贈りました。
 花屋で買った一輪だけのカーネーションを「はい」と言って母親に差し出しました。母親はそれを見て、「なんだこれ?」と言いました。それだけです。母親が受け取るまでの沈黙と、その後の沈黙が妙に恥ずかしかったことだけは覚えています。
「なんだこれ?」しか言わなかった母親に対して、悲しいとか寂しいとは思いませんでした。母親のそばを離れて、妙にサバサバした気分になりました。それは、寂しさに対する穴埋めかもしれませんが、「お母さんを無理に好きになろうとするような無駄なことをしなくてもいいんだ」と思って、楽になりました。それ以来、母親に対する特別な感情──「期待」というものは感じなくなってしまいました。「消えてしまいたい」と思うようになるのは、そのずっと後です。
 私にとって重要なのは、家の外に作り上げた人間関係です。それが突然崩壊してしまった時の喪失感は言いようがありません。それまで「一緒だ」と思っていた人間達が、ある日突然、一斉に違う方向を向いて自分一人が取り残されてしまうという経験を、私は二十歳までの間に二度経験しました。「もう誰も信用しない」と思っても、それですむわけではありません。どうしたらいいか分からなくなって、ある感情が浮かんで来ます。それは、「自分になにか問題があって、こんなつらい思いをしなければいけないのだろうか?」という感情です。
 よく考えてみれば、それは自分の中に根を下ろしてしまった一番古い感情の一つです。他人に拒絶される──その目と遭うたびに、「自分はなにか悪いことをしたんだろうか? 自分になにか問題があるんだろうか?」と思ってしまいます。そういう問いとは無縁になっていたはずなのに、外部に起こった変化がいつの間にか、その問いを誘い出します。一度は外部の変化に立ち向かって撥ね返しても、なにかあれば、またその問いは大きくなって立ち上がる。「なにが問題なんだろう?」と思っても、その拒絶する視線は答を返してはくれません。まるで「一人で苦しめ、反省しろ」とでも言うように、私に後退を強要します。その視線からジリッジリッと下がって行って、消しようのない自分に対して「消えてしまいたい」と思います。
 それがピークに達したのは、原稿書きになった後です。原稿には「自分の考え」がストレートに出てしまいます。だから、それに対する拒絶もストレートに響きます。拒絶や嘲弄──そういうものを気にしないようになってずい分たつのに、この『消えたい』という本の冒頭にある部分で、それが甦りました。
《彼の語り口は、どこか社会から離れ、人々から離れ、浮き世を遠くに見ているようだった。》と言われてしまえば、この《彼》は自分のことだと思い、その《彼》達に《異邦人》というレッテルが貼られてしまえば、もう逃げ場はない。なにも悪いことをしていないのに、《異邦人》という檻に入れられてしまう。
 それを理解するためには《異邦人》というカテゴライズが必要なのだろうけれど、私にはそれが一番つらい──としばらくは思って、「どうでもいいや」と忘れてしまいました。
 それで私は、「他人を異邦人と思う『普通の人達』とはどういう人達なんだろう」と思い続けるのでしょう。

 

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