ちくま新書

戦略的リアリズムとは何か?

『日本の戦略外交』の「はじめに」を公開します。 戦後の日本外交にはどのような戦略的リアリズムがあったか。90年代以降の「価値観外交」の展開。中国の台頭、米国の疲弊、ロシアの策謀、EUの混乱。空間的動向と時間軸といった戦略環境が激しく変化する現代、日本外交はどのような「自画像」を描き出せるか。――国際社会の熾烈な駆け引きを、政権の屋台骨を支えるキーマンたちへの取材で紐解きます。

 本書は、現在、我々の眼前で展開する安倍戦略外交の構想と実態を探るとともに、〈戦略的リアリズム〉を縦軸に据えてその意義を分析したものである。分析にあたっては、敗戦国日本の復興、即ち〈独立と生存(安全)〉を獲得するために貢献した外交家二人、吉田茂と岸信介が1950年代に展開した外交、そして冷戦終焉後に生じた1990年代の「戦略的猶予期間」に展開された宮澤喜一・橋本龍太郎・小渕恵三の外交をそれぞれ念頭に置きつつ、21世紀に激変した大情況(戦略環境)の中で、総理大臣・安倍晋三が進める米中露との外交戦の軌跡を辿った。
 リアリズムとは通常、国際政治的には、理想的な平和を実現するために国際法や国際協調を最重視し、主体の主要手段として軍事力に並列する形で貿易・投資・交渉・説得を有力なツール(武器)と見なすリベラリズムに対して、ホッブズ的な無政府状態を前提に国益(国家の独立と安全)確保の手段をパワーに求め、軍事力を最重視する立場を指す(ジョセフ・ナイ、デイヴィッド・ウェルチ/田中明彦、村田晃嗣訳『国際紛争――理論と歴史』原書第8版、有斐閣)。しかし、事はそう単純ではない。パワーポリティックスの下で常に実践の洗礼を受ける宿命の外交においては、理想主義か現実主義かという二者択一の次元を超え、長期的時間軸に沿って双方の主張を包摂・妥協を図ることが求められる。そして日本おいて、「国益の最大化」とイデオロギーを排除した「パワーの拡大」を平和裏に目指すものとして突きつけられたのが、廃墟から立ち上がり祖国の再建を目指した時代における機略縦横の戦略的外交なのである。
 核兵器の出現後、戦後外交の舞台に登場した宰相・吉田、岸の二人には、戦略眼に裏打ちされたリアリズムが見られた。筆者はそれを〈戦略的リアリズム〉と呼ぶ。では、リアリズムの戦略性とは何か。それは、地の利を熟知し、人の和とエネルギーを引き出す才を有する指導者に備わった〈天の時〉を待つ忍耐力と胆力(時機を待ち、時を味方に果断な行動を可能にする能力)を根幹とする時空感覚と長射程の歴史意識に深くかかわっている。

  37代米大統領リチャード・ニクソンに、「廃墟の中から祖国の経済的勝利をつかみ出してみせた」「頑強な現実主義者」と言わしめた(徳岡孝夫訳『指導者とは』文藝春秋)吉田茂の敗戦後の闘争がそれに当てはまる。敗戦という現実を率直に受けとめ、マッカーサーが厚木の基地を降り立った時から始まった劇的変化(革命)に積極的に対応した姿は、戦略的リアリストのそれであろう。
 理想を追い求めた〝立法者”のマッカーサーは、日本を一日も早く民主化しようとし、天皇の絶対的権力を骨抜きにすることによって絶大な実権をわが身に移し、新憲法と農地改革という難事業を成し遂げた。その後、戦後デモクラシーが選んだ吉田茂に実権を移したが、〝執行者”の吉田は、マッカーサーが構築した「国のかたち」を情況変化に合わせて巧みに修正していったのである。そこには、今ここで敗者となっても、いずれは時機を捉えて勝者になる、との確信があったように思われる。
 新たな情況が出てきた時には、いたずらな誇りや強情には束縛されず、経験豊かな人の意見に素直に耳を傾ける寛容さも〈戦略的リアリズム〉を形成するファクターである。時代の可能性と限界を見極めた上で、指導者としての時代的使命、実権を次世代に引き継ぐという自覚、そして歴史的長射程を持った心的傾向、それを〈戦略的リアリズム〉に付与するならば、吉田と岸の位相にそれほどの違いはなかったように思える。
 以来半世紀以上、日本を取り巻く大情況(国際的戦略環境)は劇的に変化した。その変化とは、まず対外膨張を志向する巨大国家・中国の台頭をはじめ、疲弊しつつもなおグローバル・パワーとしての存在を期待されるアメリカの焦燥、そして2016年の世界激変を象徴する「トランプのアメリカ」の出現。さらに、中国の海洋進出に強い警戒感を募らせる世界最大の民主国家インドの野望、中国との戦略的な関係に基づき米国の力を削ごうとするロシアの策謀と動きを反映した地殻変動だが、さらにはEU(欧州連合)におけるアラブ難民の大量流入やイギリスのEU離脱問題(Brexit)なども絡んで、現在、国際政治の構造的変化及び主体的内因によって引き起こされる現象は地球規模で広がっている。
 この間、冷戦終結という歴史的大事に遭遇した日本外交は、空間的には〈点と線〉から〈面と立体〉、加えて「時間の支配」が求められるアリーナへの移行を余儀なくされた。筆者は、こうした視覚から切り込む戦略外交を、インドが推進する「非同盟2・0」に倣って、4次元の戦略的思考が求められる〈日本外交2・0〉と呼ぶことにする。
 日本外交の現在に立ち戻れば、今や岸の血を受け継ぐ総理大臣・安倍晋三が「積極的平和主義」の旗を掲げ、「価値観外交(あるいは価値の外交)」に拠って「大国外交」を積極的に展開している。冷戦後、そして9・11テロ後、国家の戦略性を左右する大情況(戦略環境)の地殻変動によって、吉田、岸の時代から劇的に変貌した国際政治が展開する中で、国家指導者・安倍晋三が真の〈戦略的リアリズム〉を持ち合わせているか否か――本書から読み取って頂ければ幸いである。
 本書では、日本を取り巻く大情況の激変と、それに対応する戦略外交の淵源と狙い、始動起点とその深化について、インサイド情報を基にその軌跡を1990年代と比較しつつ辿る。安倍政権が誕生して丸4年が経過したこの時点(2016年暮れ執筆時)で、これまでの安倍外交を総括、その今を追跡することは、単に大情況の中における日本を考えるばかりでなく、常に外交の連動要因である国内政局を見る上でも、有用かつ豊かな視点を提供できるものと確信している。

 本書の構成を紹介すると、安倍戦略外交の理念、理論構造、その実態について詳述する前に、日米同盟をはじめとするインド、オーストラリアなどとの連携の論拠としている「価値観外交」の前史として、1章では冷戦構造崩壊後の「戦略的猶予期間」(1990年代)における日本外交をまず俯瞰する。続く第2章では、安倍外交の思想構造の原型となった麻生太郎外相の「自由と繁栄の弧」とそのプロデューサーとなった三人の黒衣を紹介する。その上で、安倍外交が目指した「戦略空間の拡大」について、アベノミクスと2020東京五輪誘致活動をテコにした13年の安倍外交(3章)と、南シナ、東シナ海、インド洋に進出・膨張する中国の動向に対抗する海洋諸国との連携戦略「安保ダイヤモンド構想」の推進情況(第4章)をそれぞれ取り上げる。
 以上、外交の空間的動向に対して、時間軸(歴史問題)に関わる安倍外交の動向については、第5章以降、米中との葛藤の中でどのように進められたかを問い、まず日米同盟のさらなる強化と真の和解への模索について、そのハードルとなった「安保と靖国(歴史問題)」の視角から捉える(5章)。これらを踏まえて、中国の仕掛ける歴史戦に対して安倍政権がどのように対応したかという問いかけの下に、戦後70年という節目の年、米議会での安倍のスピーチなどを武器に進められた日米和解の演出と、その一方で中国、韓国を意識した戦後70年談話の作成過程に表われたプラグマティック(実利主義的)な対応とその内幕(第6章・第7章)、第8章では、残された戦後処理として北方領土問題の解決に執念を燃やす安倍の対ロシア外交について、過去の対露外交史の挫折を追いながら、その内実を探った。そして最後の章では、「オバマからトランプへ」と大統領を代えた超大国アメリカとの同盟体制を続けていくにあたって、日本外交が宿命的に背負う難題と超克の苦悩を取り上げる。
 なお原則として、肩書きは当時のもの、敬称は基本的に省略させて頂いた。

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