古代は現代人と接点がないのだろうか?
確かに古代は遥か遠い昔のこと。しかし古代は現代に通じていると著者は実感しています。現代日本人が、その存在を当然として受け入れている天皇。また自分も最後は墓に入ると思っている、その墓が属すのはお寺。天皇もお寺も、まさに古代のある時期に生まれた、ひと続きの出来事といっていい。
現在、反グローバル化の渦が世界的に巻き起こっています。その中にあって浮足立つことなく、日本という国のはじまりをじっくりと見つめなおし、我々自身のありかを知る必要がありそうだ。我々はどのようにしてはじまったのか、その拠って立つところは何なのか? 〝変わっている〟〝不思議な〟〝クールジャパン〟に安んじているだけではすみそうにありません。
日本古代史という壮大な過去は、文献史学と考古学の膨大な蓄積で成り立っています。しかし残念ながらそこへの関心は、一部のマニアックな範囲以上には、なかなかひろがっていないように見えます。本書はこれら二分野に依拠しつつも、あたらしい視点に立ち、あらためて現代に、現代とつながる古代史を立ち上げようとするものです。
著者は建築家として前半生をおくり、現在は建築家の眼で、日本の古代を透視せんとしています。近年、しきりに胸に去来するのは、
建築を舞台とする人間の夢と野望、約束と裏切り、
建築を生み出す人間の、こころの底に蠢く本音 ……
ハード・ソフト両面にわたる建築的経験の、あらん限りを使いこなして、建築的想像力の一切を日本古代史に注入したい。古代史を建築的に三次元化し、さらに時間をふくめて、これまでないほどに活写してみたい。して、その目的は?
――日本という国が出来上がるプロセスを現代に蘇らせるために。
「日本」誕生の具体的な過程のなかに、現代でも脈動している〝遺伝子〟と〝環境因子〟を探し出すのです。国のなりたちを規定した建築から、そして建築にかかわる営みのなかから現代につながる「日本」の遺伝子と環境因子を見いだし、これを露わにする ――。すなわち本書は、建築的想像力を駆使して日本古代史を現代に、あらたに構築する試みなのです。
それにしても、なぜ建築なのか?
いったい、建築が古代史再構築の有効な足掛かりになるというのか?
然り――
歴史の舞台背景としてだけではなく、古代史の核心を牽引したのが、ほかでもない、権力者たちが駆使した建築という政治的言語だったのです。
4月刊のちくま新書『建築から見た日本古代史』(武澤秀一著)は、仏教公伝のあった6世紀半ばから、天皇制国家「日本」がスタートした7世紀末まで、飛鳥寺、法隆寺、四天王寺から本薬師寺、伊勢神宮をはじめとする個々の具体的な「建築」に着目し、古代史を立体的に一望する壮大な試みです。建築の古代史における位置づけについて触れた「はじめに」を公開します。