小さな頃、私は児童文学や絵本に夢中な子どもで、もう一つ名前を持っていた。外国の童話に出てくる、きれいだと思った言葉をファーストネームとラストネームにした、私の頭の中に住む、異国の女の子の名前だ。恥ずかしいので死んでも言いたくないが、いまだにその名前をはっきり覚えている。それは、もう一人の私だった。よく彼女のことを想像していた。
同様に、屋根裏部屋にも憧れていた。団地からマンションの五階に引っ越した後、はじめて自分の部屋ができたのだが、中学生の頃の私は一時期、その部屋を屋根裏部屋として生活していた。自分の部屋から出るとすぐに廊下だったのだが、頭の中では梯子で下りていた。壁や棚にガラス細工や小物、ポストカードなどを飾りつけては、静かに喜んでいた。
けれど、歳を取るにつれて、こういう行為は世間では幼稚らしいということに気づかされたし、いつまでもこのままでは駄目らしいということもわかり出していた。気づいていたし、わかっていたが、自分には自然なことだったので、いまいちやめ方がわからなかった。
そんな十代の終わりか二十代のはじめに、私は自分のことをマリアと呼ぶ、不思議
な女の人の文章に出会った。
「マリアは貧乏な、ブリア・サヴァランである。」
という一言ではじまる『貧乏サヴァラン』を読んでいる時の私の気持ちは、今思えば、困惑に近いものだった。これまで読んできた文章の中でも特に異質なオーラを放っていたし、書いてあることも、ほかの大人たちとなんだかぜんぜん違うのだ。この一冊でもう、森茉莉は私にとって特別な人になった。
彼女は、「ほんものの贅沢」というエッセイの中で、「だいたい贅沢というのは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていることである。容れものの着物や車より、中身の人間が贅沢でなくては駄目である。」と贅沢を定義し、「中身の心持が贅沢で、月給の中で楽々と買った木綿の洋服(着替え用に二三枚買う)を着ているお嬢さんは貧乏臭くはなくて立派に贅沢である。」と書いた。そして、彼女が日々実践している贅沢について、書いて、書いて、書いた。そのディテールには、魅力というより、魔力があった。
「夏は高くない麻の襟をかけ流し(一度で捨てる)にする、それが贅沢である。貧乏な私がタオルや、一本の匙に贅沢をする、空壜の薄青にボッチチェリの海を見て恍惚とする。これは「贅沢貧乏」である。戦後贅沢貧乏をやってみて、今の私は「贅沢」より「贅沢貧乏」の方が好きになった。金を使ってやる贅沢には創造の歓びがない。」
質実剛健な暮らしということではない。近所の氷屋で調達した氷で情熱を込めてつくるアイスティー。コートやスーツは買えなくても、タオルや靴下に凝る。小さなことにとことんこだわる。料理はベッドの上でする。テレビや雑誌や社会の価値観が提示する贅沢はお金持ちにしか手が届かなかったり、高尚すぎたりしたけれど、彼女の贅沢は、今すぐ私ができること、というかもしかして私、もう実践してないか、と思えるところがあって、楽しかった。彼女の自由な精神は面白かった。いつだって、私は面白い女の人の書くものが好きだ。
後になって、彼女がこれらの自由で面白い文章を書いた時の年齢を知って驚いた。それはそれまで私が知っていた、人間の歳の取り方ではなかった。彼女を実際に知っていた人たちが、彼女の部屋は足の踏み場もないゴミの部屋だった、というようなニュアンスの証言をしているのを読んだ時は、彼女が細かく描写していた部屋の印象とあまりに違うので、本当に戸惑った。彼女の目に見えていたものと、現実のギャップを考え、どれだけ彼女の想像力と価値観が確固たるものだったかを思った。
今回、彼女の文章をいろいろと読み返してみて、彼女の自由な心と「贅沢貧乏」はやはり偉大な発明であり、たくさんの読者の心を救っただろうと、当時の私が理解していた以上に理解できた。年齢的には大人になったばかりのその頃の私で言えば、大人になっても、老女になっても、少女の時の精神をそのまま守り続けた人がいる、そういう大人もいる、そうやって生きてもいいのだ、と何か勇気のようなものを与えられたのだと思う。頭の中のもう一つの名前を、消すことなんてないのだと。
彼女は、「楽しむ人」というエッセイを「私が若い女の人たちに言いたいことは楽しむ人になってもらいたいことだ。」とはじめ、世間の流行や価値観について触れた後、こう続ける。
「そういうものはほんとうの楽しさではない。皮膚にふれる水(又は風呂の湯)をよろこび、下着やタオルを楽しみ、朝おきて窗をあけると、なにがうれしいのかわからないがうれしい。歌いたくなる。髪を梳いていると楽しい。卵をゆでると、銀色の渦巻く湯の中で白や、薄い赤褐色の卵がその中で浮き沈みしているのが楽しい。そんな若い女の人がいたら私は祝福する。」と書いた。時代を超え、日々を自分の好きなかたちで楽しむことを知っている人は皆、森茉莉の子どもたちである。
それにしても、裕福な幼少期を過ごし、元夫とのフランス生活を経験したのに、いざお金が尽きたとなったら「贅沢貧乏」に切り替えられたことが、つくづく彼女らしい。すべては、「楽しむ」というポイントに集約されていたのだ。
「私は別に自慢をする訳ではないが、どうやら生まれつき楽しむことが上手に出来ているらしい。それはえらいからでも、すぐれているからでもなくて、むしろぬけているからと言う方が当たっているようである。年にしてはおかしいくらい楽しんでいる。」(本書「楽しさのある生活」)
夫と離婚し、父の印税を取得する期間が切れ、五十歳を過ぎて物書きになってから、彼女の「楽しむ」は、家の内側から、世界、に拡大されたのではないだろうか。「モオパッサンの小説の挿絵を連想させる洋服」を着ている黒柳徹子をテレビで見て、「ハリエット・ヴァイニング夫人」というキャラを即座に妄想し、物語をつくったという、『贅沢貧乏のお洒落帖』に登場するエピソードなど、幼少期に豪華な西洋人形で遊んだ日々を、実在する人間でやってみているだけのことのような気がする、彼女にとっては。世界は、彼女が楽しむためのおもちゃであり、だから彼女はおもちゃで最後まで楽しんだ。
ある新聞に掲載された彼女の死亡記事に、「孤独な死」と書かれているのを見たことがある。でも、彼女の書いてきたものが、それをきっぱりと否定している。