ちくま新書

映画『君の名は。』と『万葉集』

2016年話題になった映画『君の名は。』のタイトルは、『万葉集』に収められた歌に由来しています。1500年前の古代と現在を結ぶ、歌という表現方法を手がかりに、『万葉集』を斬新に解剖していく5月刊ちくま新書『万葉集から古代を読みとく』(上野誠著)の「はじめに」の一部を公開いたします。

 新海誠監督の映画『君の名は。』(二〇一六年)を見た。

 この映画の鑑賞を勧めてくれた人がいたからだ。しかし、正直にいうと、私は当初、乗り気ではなかった。五十七歳にもなった私が、高校生が主人公のアニメでもなかろうと思ったからだ。この映画を勧めてくれた大恩人 も、「『万葉集』の歌が、映画全体のモチーフとなっているから、見ておくべきだ。あなたは、まがりなりにも当代を代表する万葉学者のひとりなのだから、いちおう見ておくべきだ――」と勧めてくれたのだ。

 そのひと言が何やらふと気になって、一月末に、映画館へと足を運んだ。なんだか、若い人、それもカップルばかりで、座席についても、どうにも居心地が悪い。悪いことこの上ない。が、しかし。観てよかった。映画を観終わっての、率直な感想は――

まいった。すごい――。折口信夫が、今生まれたら、国文学とか、民俗学とか、そんな陰気な学問はしないだろうなぁ。アニメーション映画の監督を目指しただろう。それにしても、日本も捨てたもんじゃない。

 私がすごいと思ったのは、芸術性とメッセージ性が高い次元で調和して、まさしく大作となっているところだ。そして、万葉学徒の端くれとして、思ったことも、もちろんある……。やはり、それは、万葉歌についてだ。映画『君の名は。』のタイトルのもとになっているのは、

  誰そ彼と 我をな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つ我を(巻十の二二四〇)

 という歌の「誰そ彼(たそかれ)」という言葉である。訳すと、「誰なのかあの人はなどと、私に聞かないでおくれ。秋深まる九月の露に濡れながら、あなたを待っているこの私のことを――」となろうか。

 女はひたすらに、男を待っていた。恋人を待っている女は、こう思ったのである。「私はあなたのことを思って、露に濡れながらも、あなたを待っているんだよ。そんな私のことを薄情にも誰ですかなんて聞かないでおくれよ」と。

 夕方になると、うす暗さからそこに立つ人が誰かわからなくなることがある。ために、中世以降、夕方のことを「たそがれどき」と言うようになった。「誰そ彼(たそかれ)?」こそ「君の名は?」なのだ。女は告白できぬまま、男の姿を見ようと待っているのか。それとも、男からすでに嫌われてしまったのか。

 この映画では、主人公の宮水三葉と立花瀧の肉体と魂が本人の意志とは無関係に時々入れ替ってしまう。それをコントロールできないのだ。その時に、常に投げかけられる言葉がある。それは、「私は誰なのか」「あなたは誰なのか」という問い掛けの言葉だ。しかも、一つの身体の内に二つの人格が棲むということになるから、いろんなハプニングが起きてしまう。この万葉歌は、男を待つ女の歌である。女は、待つ私はいったい誰なのかと、あなたからは聞かれたくないというのだ。映画の主人公は、自分は問い掛けるのに、相手からは聞かれたくないというのである。

 なんという矛盾。その矛盾がドラマになっている。とすれば、互いに名乗り合うことはなく、永遠に探り続けることになってしまう。この映画の主人公の葛藤は、ここにあるのだ。好きな相手といっしょになるということは、精神的にも、肉体的にも一つになるということにほかならない。平たくいえば、それが結ばれるということだ。人と人とが結ばれる最初の言葉こそ、「君の名は?」なのだ。

 と同時に、人は、自分とはどういう人間なのかと常に問い続ける動物でもある。人は問い続けることでしか、自分自身のことがわからない動物なのである。映画の物語は、問い掛け続けることによって、自分のなかのもうひとりの自分を見つけ出そうとする高校生の物語なのである。

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