自炊派と外食派がいる、という話になった。夕方、仕事が終わる。疲れ果てて、めんどくさいからきょうは「まっすぐ帰って、簡単なものを作って済ませたい」というひとと、「なんにも作りたくないから、どっかに寄って食べて帰りたい」というひとの二種類に、見事に分かれた。ちなみに僕は自炊派だし、「疲れてそれから料理するなんて信じられない」という女性もたくさんいたので、男女差でもない気がする。
セルフビルドとは自炊建築である。著者の石山さんはずっと前からセルフビルドの可能性を世に紹介してきて、しかも自身が建築家という、自炊とは対岸にいるはずのプロの料理人でありながら、シロウトとクロウトのミッシングリンクをつなぐ役割を果たそうとしてきた人物でもある。
失礼を承知で書かせていただくと、そういう石山さんの記事や作品に長く接してきて、僕にはいまひとつ乗れないところがあった。カリスマシェフとカリスマ主婦が対決する料理番組や、アウトサイダー・アートを持ち上げる現代美術業界人に漂う「濁り」のようなものを感じてしまって。プロならアマチュアにはとうてい手の届かない世界で、有無を言わせない作品をつくるべきじゃないかと。
でも、こうして文庫版になった『セルフビルドの世界』を読み直してみると、楽しげな記述の奥に、石山さんの切実な思いが滲み出ている気がする――これからの建築が「リアル」であるためには、こういうふうに進んでいくしかないんじゃないか、という。
ずっと前からセルフビルドには「マニアック」という臭いが染みついてきた。既存の建売住宅やマンションでは満足できない精神や審美観を満たす、ワガママの究極としての。ほんとにそうだろうか。
これまで三十年以上いろんな居住空間を取材してきて、中には本書に入れてもらえそうなほど本格的なセルフビルド・ハウスから、ボロアパートの一室、廃墟の片隅、クルマの後部座席といった極小セルフビルド空間もあったが、僕が出会ってきたセルフビルドのひとたちは、趣味が高じてのセルフビルドではなくて、むしろ「めんどくさいからセルフビルド」、「疲れたときには自炊」派のセルフビルドだった。
かっこいいキッチンとかいらない、土足でうろうろしたい、リビングの端っこにマットを置いて寝られればいい……そうしたささやかな望みを満たしてくれる既存の物件がなかったり、理解してくれる建築家がいなかったり、いたとしても雇えない。だから「めんどくさい」のと「カネがない」のでセルフビルド、というケースにこのところ特によく出会う。
いろいろ説明してるより自分で手を動かしたほうが早いし、気持ちも楽だからやってるだけですよ、というひとたちにずいぶん会ってきた。たいていは二十代、三十代の若者だが、彼らに「プロフェッショナルな建築へのアンチテーゼとしてのセルフビルド」というような気負いはまったくない。こっちが驚いたり褒めたりしても、「いや、ヒマだけはあるんで~」とか恥ずかしがったりする。
本書のオリジナルは二〇〇八年に発行されている。それから茯年近くが経って、そのあいだには地震も津波も原子炉のメルトダウンもあって、大企業もいつ潰れるかわからなくなって、なのに就活はクレイジーになって、日本はずいぶん住みにくい国になったと思う。特に若者にとっては。
そういう状況でセルフビルドという生きかたが新しいゾーンに入りつつあるのだとすれば、「買うより作るほうが気楽」と思える時代への、この本は加速装置の役割を果たしてくれたのかもしれない、と僕には読めた。