ちくま学芸文庫

歴史の織物を読みとること
『中世の窓から』文庫版解説

6月刊行のちくま学芸文庫『中世の窓から』(阿部謹也著)より、文庫版解説を公開します。中世の歴史をひとつの織物に喩え、その糸筋を丹念に辿っていく歴史家・阿部謹也氏の鮮やかな手つきを読み解きます。著者とともにヨーロッパ中世史研究を牽引した樺山氏だからこそ描き出せる珠玉の解説となっています。

 もうそれは、今から40年近く前のこととなってしまいました。その頃、私たちは、世界史上における「中世」の意味を考えようと、卓をかこんでいました。「私たち」とは、日本中世史家の網野善彦さんと石井進さん、そしてヨーロッパ中世史家の阿部謹也さんと私。多少の年齢差はありましたが、みな青雲の志をいだく中年以下。話は「中世」の東西から始まりましたが、およそ歴史に関わる、社会と人間についての事象が、テーマとなりました。数日間を数回と重ねた座談会は、『中世の風景』というタイトルのもとに、二巻本の新書となって公刊されました。
 あまりに古い過去となったうえに、3人の中世史家は私と幽明を異にしてしまい、いまとなって証言するのも憚られるところです。ただ、その席上で、阿部さんがポツリと漏らした「次の仕事の構想」のことは、なぜか鮮明に覚えています。じつは、のちになって分かったのですが、本書『中世の窓から』の根幹になった新聞連載のことでした。それは『中世の風景』の編集と前後する時期に掲載され、やがて加筆のうえで単行本として書店に並びました。そんなわけで、おなじ「中世」を冠におくこのふたつの書物には、密接なつながりがあることを、否定できません。
 ともあれ、『中世の窓から』は、多数の読者に温かく迎えられたばかりか、大佛次郎賞をうけるなど、天下にその価値を鳴りひびかせました。阿部さんの肉声が鮮やかな本書は、後学の私にとっては、まことに仰ぎ見る高峰に思えたものでした。
 解説の筆をとるのもおこがましいとはいえ、学恩にこたえる務めとして、勇を鼓して証言させていただきます。その40年の昔に、なぜこの本の構想が私たちを鋭く刺激したのか。そしていまなお、その思考の跡が、21世紀の私たちの耳をそばだたせるのか。短文にして、しかも非力のゆえに誤解に走ることを憂いながら、その謎に分けいってみることにします。
 私の見るところ、この本は西洋中世という織物の図柄を読みとくための、特異な作戦でできあがっています。とりあえずは、作戦は2つあるようです。2つは、おなじ対象を標的としながら、ことなった角度から眺望しようとします。あるいは、ヨコ糸とタテ糸といってもいいかもしれません。ヨコとタテの糸に沿って、織物を作りあげ、読みとるということでしょうか。
 ヨコ糸はといえば、西洋中世の人びとが、おたがいを結びつける無形の絆とでもいえるもの。明文で記された掟や、条文ではなくて、はるかな昔から暗黙のうちに成り立ってきた慣わしのようなもの。そのなかには、遠い過去から維持されてきた家族(イエ)のなかの人間的なつながりや、生活物資を無償でたがいに贈与しあうコミュニティの役割もふくまれます。こうした古来の伝統や慣習が、中世社会を成り立たせていたことは、常識で考えても十分に納得がゆくことでしょう。本書のはしばしに、ヨーロッパらしい社会風習として実例が引用されています。
 たとえば、本書でも阿部さんが引例するアジール(避難所)慣行は、多様な形をとって、ヨーロッパやアジアの伝統社会のなかで、類例が紹介されてきました。いまでは、民族学(人類学)や民俗学の共通のテーマのひとつと言ってもよいでしょうか。ただし、その慣行が歴史社会のなかで明瞭な形跡として確定されるのは、ようやく昨今の研究の成果です。もちろん、阿部さんを先覚者のひとりとして。
 そうした西洋中世の社会的な基盤をヨコ糸と考えましょう。このヨコ糸に直角に交わるように、タテ糸が張られます。こちらはかなり明瞭な素性があります。時間や空間、それに糸の材質までを特定できます。ここで選ばれるそのタテ糸とは、ドイツ中世、しかもそのうちでも適度な情報を送ってくれるいくつかの中世都市の社会状況です。ニュルンベルクとかハンブルクといった土地の名前が、本書にしばしば登場します。しかも、その都市社会にあっては、中世のある時期になると、まるで歴史的事件のように、古い落ち着いた人間関係のかたわらに、息せききったような経済的取引関係が生まれてきます。
 分かりやすい言葉でいえば、貨幣経済の出現とでもいえるでしょうか。人間の労働の結果として商品がつくられ、これを市場において貨幣をなかだちに取引すること。しかも、これと並行するかのように、人間たちの間柄を合理的に調整する決めごとが制定され、法律とか制度とかよばれるようになります。
 じつは、このタテ糸はこれまでの歴史学にとっては、わりと馴染みのある主題でした。とくに、ドイツ中世については、本国ドイツはもちろん、日本にあっても、多くの研究者がこのテーマをめぐって成果をあげてきました。ゲルマン人は古代ローマ帝国という南方の伝統とはべつのところで、ヨーロッパ民族移動に始まる長い中世世界を営んでいきます。そのなかで、先進の地中海世界と接触しながら、少しずつ新しい価値を学び、進歩を旨とするタテ糸の張り方を学びとっていきます。それだけに、このタテ糸の張り方や、それの読みとりは、かなり分かりやすい方法で可能だったかにみえます。
 ヨコ糸とタテ糸。このふたつが整って、中世社会という織物が成立します。本書は、その時期を11世紀のことだと明言しています。さて、こんなふうに整理してみると、なにかあまりにも平明すぎて、しごく当然の説明で終始するように見えてしまいます。あまりハラハラ、ドキドキもない、滑らかな織物をなでるような。そのとおりでしょう。どうもじつは、中世という織物をそそくさと観察しようとしすぎて、もっと重要な織目をうっかり見逃してしまったようです。そのことを、もうすこし詰めて考えてみましょう。
 ふつうの歴史学は、どうしても史料に文書として残りやすい人間や事件のことを、おもに語りがちです。その主題が公式の国家政治や交換経済に関わるときばかりか、慣習として社会を統御する非公式のルールについての場合でも、あらかたは世のなかの中心部分にいる人びとのなりわいを語ります。ところが、かなり多数を占めていながら、無関心や意図的な蔑みのために、語られることが少なかった人びとは、どうでしょう。女性や子ども、宗教上の異端やユダヤ人という異教徒(つまり非キリスト教徒)、そのほかにも、さまざまに「社会のなかで排除された人びと」のことです。
 こうした人びとは、中世社会という織物のなかで、あまり目立たない場所に織りこまれています。社会の起動力といったダイナミックな存在ではないかもしれません。けれども、その織物の一端をめくってみると、ときにきらりと光る輝きが現れてくることがあります。これまでも、多くの歴史家たちが、その一瞬のきらめきを捜して、史料を追い求めてきました。すると、21世紀の現在とは異なった文脈のなかで、苦しみや歓びを体験する女性や子どもたちの生きた証しが、発見できることもあります。「周辺」にあるために、「中心」では見えない生き方に出会うこと。歴史家にとって、その探索は大切な務めであるといっても過言ではありません。阿部さんは、その務めにとても敏感に反応して、織目をさぐっていきます。
 最後に、もうひとつの糸目について、付言しておくことが必要かもしれません。というのも、これまであまり話題とされることが少なかった、興味ぶかい視点が本書を彩っているように見えるからです。「モノを媒介とする、人と人との関係」と説明されています。石と鉄、犬と猫、刀と剣、衣服と靴、仮面、手紙……。まだまだあるでしょうか。じつは、これらのモノたちは、これまで歴史の物語のなかに現れることは稀でした。もちろん、それぞれの専門分野での研究はありました。石造芸術の美術史や、衣装の歴史、あるいは刀剣と戦闘の歴史、家畜としての犬猫の飼育史などなど。
 けれども阿部さんの試みは、そうしたモノたちをとおして、人と人との関係をあぶりだすことにありました。どれもが、たんなる物質、道具、生物にすぎないようにもみえます。けれども、中世人たちが馴れ親しみ、日常の伴侶としたモノたちは、それぞれに格別な意味や価値をもっているだけに、いつも人間同士のつきあいの場に登場して、格別な役割をはたします。
 さて、中世という織物を観察しようとする本書には、どうも初めに見たようなヨコ糸・タテ糸としての仕組みばかりではなく、いくつもの糸筋が張りめぐらされていると言わざるをえません。たぶん、ここで取りあげた四本の筋の糸だけではないかもしれません。歴史を観察するための妙技とは、いつも対象となる時代や社会を念頭に置きながら、そこに織りこまれているさまざまな色調の糸を、タテ、ヨコ、ナナメといったいろいろの角度から、読みとることなのでしょう。本書は、けっして大きな分量の歴史書ではありませんが、しかしそうした技法を編みだそうとする、歴史家のみごとなお手本にちがいありません。
 執筆されてからもう40年ちかく。けれども、年月とともに古びることなく、また新たな理念や手法の提唱によっても、否認されることなく。本書がいまなお瑞々しさを湛えて発声しつづけるさまを見ると、私たちも勇気づけられます。これからも歴史家として、対話を試みていきたい。遠ざかっていく過去という時代との対話と、そしてそれをともに温めつづける、現在の読者とのあいだの対話とを、ふたつながら大切にしながら。

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