あたらしい小説を書きました。
『遠くの街に犬の吠える』というタイトルですが、犬は出てきません。
このおかしなタイトルは、じつのところ、頭と尻尾が要でありまして、つまりは「遠吠え」というものについて、考えたり、考えるのをサボったり、あるいは、大いに横道に逸れたりして書いたのです。
遠吠えとは何ぞや、ということであります。
いえ、遠吠えを対岸の火事のように聞いている、という話ではありません。当の本人――まぁ、本人が犬であるのなら、「本犬」と記すべきでしょうが――は、何ゆえ、あのように哀しげな咆哮を夜な夜な繰り返すのか。
一体、何に向かって吠えているのか。本犬は何をおっしゃりたいのか――。
しかし、こうも思うのです。
ああ、アイツも遠くの街で吠えているのか。じゃあ、オレがここで吠えたら、この思いはアイツに届くのか、と。
まぁ、思うだけで、実際に吠えたりはしないわけですが、一説によると、高めの音程で長く尾を引くような遠吠えは、
「オレはさみしいーっ」
と訴えているそうなので、
「さみしいーっ」「オレもさみしいーっ」「オレもー」
と、あちらこちらから遠吠えが聞こえてくる夜というものは、夜そのものに何かしら秘密があるのかもしれません。
人は、夜のさみしさや心もとなさを紛らわすために様々なものを発明しました。小説もそのひとつです。夜ふけにひとり静かに本をひらくことは、ページの向こうにある遠くの街に耳を澄ますことでもあるでしょう。
しかし、昔にくらベて、このごろの夜はずいぶんと明るくなりました。そんな明るい夜に、
「オレはさみしいーっ」
と吠えるのは恥ずかしいことかもしれません。
「そんなの恥ずかしいよ」「みっともない」「場違いです」「空気、読めてない」
と、場合によっては、一気に包囲されてしまい、云いたい言葉、使いたい言葉を胸の奥にしまい込んでしまうことが多々あるように思います。
遠吠えから始まったこの小説は、そうしたこの世から抹消された言葉についても考えることになり、本文の中に次のように書きました。
「記録されなかった言葉、あるいは、あえて抹消されてしまった言葉。それらを丹念に拾い集めれば、生きのこった言葉で編まれた辞典と同じ厚さをもった「見知らぬ言葉」の辞典をつくれるはず――。」
この文章に、ゲラ刷りをチェックしてくれた校閲さんが、「同じ」と「厚さ」のあいだに「かそれ以上の」と挿入し、「同じかそれ以上の厚さ」にしてはどうですか、と鉛筆で書き込んでくれました。そして、そのあとに、
(過去の時間に消えた言葉の方が、〝生き残り〟より多いかもしれないので…)
というメモ書きがあり、さらには、
(『古語辞典』の項目選定の作業を手伝った数年間の実感です)
とありました。
校閲者と著者は、ゲラ刷りの紙面を介したやりとりしかしないので、お名前も存じ上げませんし、もちろん面識もありません。
しかし、このメモを読んだとき、もしかして、われわれは遠吠えで呼び合っているのかもしれないと勝手に感じ入りました。
即刻、「かそれ以上の」を挿入したのは云うまでもありません。
PR誌「ちくま」6月号より、久しぶりの長篇小説『遠くの街に犬の吠える』を上梓した吉田篤弘さんの自評を転載します。この小説をめぐる、吉田さんらしいエピソードをお楽しみください。小説を読みたくなります。でも、クラフト・エヴィング商會の装幀の妙は、ここではわかりません。ぜひ現物を手にとってみてください。