ちくま学芸文庫

親の本棚をあさった日々
『美少女美術史』刊行に寄せて

PR誌「ちくま」7月号より、『美少女美術史』(ちくま学芸文庫、6月刊)の著者、池上英洋氏のエッセイを公開いたします。『官能美術史』『残酷美術史』『美少年美術史』につづく、第4弾『美少女美術史』。この人気シリーズはどのようにして生まれてきたのか? 著者の思考の軌跡が明らかになります。

 絵を描くことと読書を趣味としていた母のおかげで、広島の実家には本と画集がたくさんあった。両親とも働いているいわゆる鍵っ子だったのをよいことに、親のいないあいだ、私は手当たり次第に親の本棚をあさることを常としていた。
 低学年の頃には、それらを読むというより、ページをパラパラとめくってはただ眺めていた。そのためには絵が多く載っている画集はうってつけで、日が暮れて母が仕事先から帰ってくるまで、古今東西の絵画を意味も分からぬまま見ていた。そのような鑑賞態度でも、お気に入りの作品というものはできるもので、デルヴォーが描く夜の街や、ワイエスの田園風景が好きだった。ルノワールの〈イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢〉には、淡い恋心のような感情すら抱いていた。
 子供向けの画集ではなかったので、なかには官能的なテーマや残酷な作品もあっただろう。そこに描かれた肌を露わにした女性の姿に、ちょっとドキッとし始めたのはいつ頃からだろうか。なかでもフラゴナールやブーシェといったフランスのロココ美術を扱った画集には、いつも「なんだかいけないものを見ている」気にさせられた。それは海外に単身赴任していた父が時おり戻るたびに増えていった洋書のひとつだった。子供の考えることは不思議なもので、その本を見る時には、他に誰もいないにもかかわらず、さも自分は関心がないかのようにページを早くめくっていった。
 本棚には、江戸川乱歩や久生十蘭、夢野久作などのちょっとくせのある作家たちの全集も並んでいた。明智小五郎のシリーズが面白くて読み始めたのだと思うが、御存じのように、乱歩の大人向けの小説はずいぶんと猟奇的でどす黒いものが多い。おそらく四年生あたりで乱歩の「人間椅子」や「芋虫」を読んだのだと思うが、さすがにそこに登場する人物の倒錯した性的嗜好や残虐性にはショックを受けた。二段ベッドに姉と寝る寝室でなかったら、夜ちゃんと眠れたかどうか……。
 小学校を卒業したすぐ後には、父とふたりで東京に行った。親戚との用事が済んだので、私は上野の国立西洋美術館に行った。ちょうどフラゴナールの展覧会をやっていたからだ。ふらふらと見物するうちに、ある1枚の絵の前に来た。黄色の服を着た少女がひとり、横向きに椅子に腰かけて、ただ本を読んでいるだけの〈読書する少女〉という作品だ。広島に帰ってさっそく姉をモデルに同じ構図の絵を描いて、似ても似つかぬ作品になってガッカリしたことも覚えている。
死と愛。少女像と、それに恋する少年――。私がこれまでちくま学芸文庫で手がけてきた4つのテーマが、すべて幼い頃からの自らの体験から育まれてきたことに今更ながら気が付かされる。
 先に出た『残酷美術史』と『官能美術史』は、西洋絵画を中心に、死と愛にまつわる主題を扱った美術作品を集めたものだ。それというのも、死と愛は常に人類の二大関心事であり続け、そのイメージの表出である美術作品によって、人類がどのようにそれらに対してきたかが浮かび上がると考えたからだ。神話や聖書に基づくもの。病や戦争から魔女狩りまで。あるいは不倫や売春から夫婦生活まで。およそ考えられるあらゆる主要テーマを網羅するようつとめている。
 それら2冊による考察をうけた『美少年美術史』は純粋に編集者のアイデアによる産物だが、書き進めるうちに、その変遷の歴史に1本の道筋を見つけ、そうした変化が生じた理由を説明することもできたように思う。そしてこのたびあらたに『美少女美術史』を世に問うことになったのだが、ご一読いただければ、『美少年美術史』同様、それが単なる美少女画のリストではなく、美少女のイメージの変遷の歴史と、その裏にある思想的・社会的背景をも浮かび上がらせるものとなっていることをご理解いただけると思う。

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