ちくま文庫

「なりわひ」と「まかなひ」
ちくま文庫『ナリワイをつくる――人生を盗まれない働き方』解説

7月のちくま文庫新刊、伊藤洋志さん『ナリワイのつくる――人生を盗まれない働き方』から、鷲田清一さんによる解説を公開します。

〝人生も社会も、お金がすべてではない〞とは、だれもが口にしたい言葉、口にしてきた言葉だ。だが、それは建前で……というのがこれまただれもが口にすることである。この本ではこの建前が「建前」ではなく「当たり前」だということが、きちんと書いてある。「建前」とは本来、梁や棟など建物の骨組みになるものだからだ。だが、その「当たり前」は、いまの日本社会ではまったくと言っていいほど通用しない。

 人びとが生計を立てるため、他の人たちとともに生き延びるためになすさまざまな活動が、「労働」として一括りにされていることが、その一つだ。働く人が抽象的な「労働力」として労働市場で選別され、売り買いされるものになっているということ、これも異様だが、それとおなじくらい異様なのは、「勤労」である。「勤労」とは、一日の大半を生活の場所とは離れた地域で働き、それで収入を得るということだ。これはまぎれもなく日常的な出稼ぎである。日々の暮らしの場を留守にするこの出稼ぎがしかし、いまや仕事の標準的なかたちになっている。

 それに勤め先としての企業は、人びとの協働態としてではなくシステムとして動いている。だから「勤労者」の多くは「用」を足さなくなれば取り替えられる。そこでじぶんが他のだれによっても代替のできない存在だと感じられるとすれば、それは僥倖としか言いようがない。さらにそれと連動して、「勤労」以外の活動が「余暇」のそれとみなされる。たとえば身内を世話し養う家事や、家の普請の手伝い、防災の用意、祭の準備など地域での活動も、もはや「仕事」とは認められない。

「近代化」という合い言葉を口にしつつ、人びとは「作る」ことの手間を省いて「作られた」ものを買うほうに暮らしをシフトしていった。家や車はもちろん、日用の道具も料理も、作るのではなく購入するようになった。製造と流通のシステムに「作る」ことのほとんどを託すことで、人はホモ・ファーベル(作る人)から「消費者」へと座を移していった。その結果、暮らしはたしかに便利に、快適になったが、そうしたシステムに漫然とぶら下がっているうち、「作る」という、生きる基本となる能力をひどく損なっていたのだった。六年前の東日本大震災のときに、東京という大都会でのパニックにごぼっと露出したように。

「勤労」以前の「家業」のような、土地に根を下ろした生業(なりわい)には、専門の技術者たちによる分業のシステムが差し込まれていないので、単一の仕事に従事することはまだふつうのことではなかった。いいかえると、だれもが複数の技を身につけていた。仕事の合間に、近所の人に家や備品の修繕を頼むとか、魚を捌いてもらうとか、さまざまの技術を提供しあうということが、暮らしのふつうの光景としてあった。それぞれにたとえば漬け物作りや酒造り、建築や土木の技術を身につけ、その技を交換しあっていた。見逃してはならないのは、そのことで人びとがおのずから複数のコミュニティに所属することになっていたことだ。だから勤労とは別の、生活の場所でも、じぶんがここにいる理由、いていい理由、いなければならない理由を見失うということはなかった。

 この本は、そうした「複業」に仕事の原点を見ようとしている。ナリワイとは「生活の元手を得るための職業」のことだが、それを社会のシステムにぶら下がるかたちで「勤労」としてなすのではなく、したがってまた生活上の「必要」を「購買」や「消費」というかたちで満たすのではなく、じぶんに必要なものをじぶんで工夫してつくってゆくことだ。そういう自給のネットワークを人と人のあいだで技を教え教わりながらじわじわと拡げてゆくことで、「人生を盗まれない」ようにすること。それが著者のいうナリワイをつくるという「作戦」であり、じぶんを実験台にした挑戦なのだ。

 人生からすっかり乖離した仕事のありよう、「睡眠時間を削って稼いだお金が、睡眠不足のストレスを解消するためにアイスクリーム代に消える」ような無理と倒錯からじぶんをまずは外すこと。そのために著者が求めるのが、実践ではなくて「洞察」だというところがおもしろい。議論はここでぐんと深掘りされる。ナリワイを考えるには、つねづね密かに感じている違和感を大切にすること、つまり「なぜ」よりも「そもそも」を考えることが「おすすめ」だと著者は言う。「なぜ、車が売れないのか?」と問うよりも「そもそも、車をこんなに売る必要があるのか?」と問うほうが大事、「どうやったら夢のマイホームが手に入るか」ではなくて「そもそも、住宅ローン自体がいらなくないか?」と考えるほうがいいと。そういうふうに「自分なりの眼で解像度を」上げてゆくと、「ナリワイのタネ」も生活のなかから見えてくる。困ったことがあれば、そこにこそナリワイのタネがあると考えるべきだというのだ。

 これはもうほとんど哲学の実践である。そしてまた、ありあわせの道具と材料を用いてじぶんの手で物を作るという、伝統的な社会では当たり前のようになされてきたあの《ブリコラージュ》(器用仕事)の知恵である。ありあわせの道具と材料でやりくりしながら間に合わせること。これを日本語では「賄い」と呼んできた。「賄い」とは、「限られた範囲内の人手・費用などで、用を達する」ことだが、岩波古語辞典によると、「まかなひ」のマカは「任」と同じ、ナヒは「おこなひ」の「なひ」と同じで、「事を相手の性質や意向に合わせて差配し用意する」という意でもあるという。なるほど、中心に一人、食べるのが好きな人、料理の好きな人がいると集団はうまくいくとよく言うが、それも納得がゆく。ナリワイのわざはどうも、このマカナイのこころに根づいているようだ。

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