単行本

日中戦争を二度と起こしてはならない

『帝国と立憲――日中戦争はなぜ防げなかったのか』の「はじめに」を公開します。近代日本の立憲勢力は、軍部らの暴走にくり返し抵抗し、日中対立の激化への歯止めとなってきました。しかし、それにもかかわらず、80年前の夏、この国の民主主義が対外侵略を阻止しえなかったのはなぜでしょうか? 今年80歳を迎えた第一人者が、その真因を60数年におよぶ近代史に探りました。ぜひ、ご覧ください。

 現代日本が領土や特殊権益の獲得をめざして対外進出に着手したのは、1874(明治7)年の「台湾出兵」からです。獲得目標は琉球(今の沖縄)でしたが、出兵したのは中国(当時は清国)領土の台湾でした。他方、近代日本が立憲制の導入に向けて具体的な一歩を踏み出したのは、その翌年、75年の明治天皇による「立憲政体樹立の詔勅」からです。前者を「帝国」化、後者を「立憲」化と呼ぶとすれば、この時から1937(昭和12)年7月に日中全面戦争が始まるまでの62年余りの間、「帝国」化も「立憲」化も、それぞれ拡大の一途をたどったと言えます。
 現代の観点からすれば、言うまでもなく、「帝国」化は悲しむべきことであり、「立憲」化は喜ぶべきことです。しかし、今の私たちには矛盾するかのように見えるその両者を、近代日本がともにごく限られた期間のうちに成し遂げたことを、どう理解したらいいのか。明治末年には、国内の民主化と中国・朝鮮への侵略との同時進行を肯定した「内に立憲、外に帝国」などという恥ずかしい標語が流行りました。その標語が意味するように、近代日本の歩みを、対外的な膨張政策と国内の立憲政治とが矛盾なく並行的に進展した時代としてとらえる見方も、少なからずあります。しかしこのような理解は、はたして正当でしょうか。
 筆者の個人的期待は、「立憲」化が進んだ時には「帝国」化が停滞する、という事実が見出されることでした。本書が明らかにするように、この期待は果たされたと言えます。約60年間の日本近代史をこの両者の関係に絞って検討した結果、「立憲」化の盛んな時には、「帝国」化が抑えられていたことは確かです。
 しかし、それにもかかわらず、近代日本の「帝国」化は、周期的に抑えられることはあっても、また段階的に進んでいきました。その様子はひと昔前に旅先の旅館などでよく見た“もぐら叩き”を思い出させます。
 「立憲」勢力がひと休みすると「帝国」勢力が頭をもたげる、と言えば事は簡単ですが、その正反対の場合も少なくありません。相手国の軍事力や国民的な抵抗の強さの前に「帝国」勢力が一時休止を強いられたお蔭で、日本国内で「立憲」勢力が息を吹き返したような場合もありました。
 戦後70年余りが過ぎた今日の日本人が戦争反対を唱えるとき、その念頭にあるのはいつも“先の大戦”、つまりは1941年末から45年8月にかけての対米戦争です。しかし、1874年から1941年までの67年間、日本の「帝国」勢力が膨張の対象としてきたのはつねに朝鮮と中国であり、1904年から1905年の日露戦争を唯一の例外として、相手国はいつも中国でした。
 1874年の台湾出兵、1894年の日清戦争、1915年の対華二十一カ条要求、1931年の満州事変、1937年の盧溝橋事件と年表風に見ただけでも、このことは明らかでしょう。念のために付言しますが、ほとんどの日本人が知っている1941年から45年にかけての日米戦争の間も、日中戦争は続いていました。1874年に始まり1945年に終わる日本「帝国」の膨張過程のすべての時期において、日本と中国は対立しつづけていたのです。
 時代を日中全面戦争が始まる1937年以前に限ってみれば、日本国内の「立憲」化への努力も同時並行的に続いていました。「帝国」化と「立憲」化の間に時期的なズレがあったと大筋でみなしうることは指摘したとおりですが、にもかかわらず「立憲」化は漸進的に進んでいたのです。1875年の立憲政体樹立の詔勅、1880年代の国会開設運動、1912年から13年の第一次憲政擁護運動、1925年の男子普通選挙法の成立、1925年から32年までつづく二大政党制の時代、そして1936、37年の二度の総選挙における合法社会主義政党の躍進。このように列挙しただけで、それは明らかでしょう。
 問題は両者の因果関係です。「帝国」化の時代と「立憲」化の時代が重なることは、事実としては存在しませんでした。二つの時代は交互に訪れたのです。このことは喜ぶべき発見でした。「内に立憲、外に帝国」という標語は、実際の政治の上では存在しなかったのです。「帝国」と「立憲」は相対立するものだったといえるでしょう。
 だからといって、「立憲」が「帝国」に正面から立ち向かった事例は、むしろ少数でした。しかし、反対に「帝国」が国内の「立憲」勢力を正面から押しつぶした事例も、そう多くはありませんでした。両者は正面衝突を繰り返すよりも、むしろ輪番制を守った時の方が多いのです。

 本書は、「内に立憲、外に帝国」という標語の当否を――そして、最終的には「立憲」が「帝国」への歯止めとなりきれなかったことの意味を――、戦前日本の歴史の中で再検討したいと思い書き始めました。そのために「帝国」と「立憲」という言葉を対概念として使っています。日中関係を主として対外関係をとらえる本書に、近代史研究では高度に発達した資本主義国家の対外膨張を指して使われてきた「帝国主義」は不適当です。しかし、琉球、台湾、朝鮮、満州、華北へと領土や特殊権益を拡大していく戦前日本が、「帝国」化をめざしていたことは間違いありません。
 その対をなす「立憲」という言葉は、本論でも説明するように、今日の「立憲主義」とは異なる意味で使っています。戦後憲法の下で用いられる「立憲主義」とは、憲法によって時の政権による権力の濫用を抑えるという意味ですが、戦前の日本にあっては、大日本帝国憲法(明治憲法)に頼っていたのでは、権力の濫用を防ぐことは不可能だったからです。
 たとえば、1889(明治22)年に発布された大日本帝国憲法は第11条で、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定めていました。ここでいう「統帥権」とは、軍隊の作戦と用兵に関する指揮・命令権のことです。それは陸海軍の統帥部(参謀本部・海軍軍令部)の補佐のもとに行使され、政府(内閣)も介入できないことを定めたものと解されました。有名な「統帥権の独立」です。詳しくは本書の中で見ていきますが、明治憲法に頼っていては、権力の濫用どころか陸海軍の暴走すら防げませんでした。
 この軍部の暴走に歯止めをかけるために生まれた議論は、「合憲」だけれども「非立憲」だというものでした。「合憲」と「立憲」を別々のものとしたのは、民本主義者の吉野作造です。1922(大正11)年2月に発表した論文の中で、吉野は次のように問題を提起しています。

 「参謀本部と海軍軍令部〔統帥部〕とは、制度の上で既に明白に国務大臣の輔弼の責任〔国政においては内閣が天皇を補佐すること〕と衝突する。これが立憲の本義に悖ることは言うまでもない。しかしながら、これを憲法違反といえるかといえば、この点は少しく他の観点を交えて考えて観る必要がある。」(「帷幄上奏論」『日本政治の民主的改革』14頁参照、〔 〕内は筆者による注)

 吉野はこの観点から、リベラルな憲法学者美濃部達吉が『憲法講話』で説いた議論の限界を指摘しています。軍部優位の大日本帝国憲法をいくら自由主義的に解釈改憲してみても、第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という規定には手をつけられません。陸海軍参謀本部の独走は「合憲」です。戦前日本では、(「憲法による権力の抑制」という意味での)「立憲主義」では軍部の独走は防げなかったのです。「大日本帝国憲法」の制限を超えてそれを抑え込むためには、憲法論争ではなく、「立憲の本義」に立ち戻るしかない、と吉野は論じました。本書で、「立憲主義」ではなく「立憲」を「帝国」に対置したのは、吉野の言う「立憲の本義」にヒントを得たものです。
 それでは「立憲の本義」はどうやって憲法の明文を超えられるのか。普通選挙論者の吉野にとっては、もしもそれが実現すれば、全国民に支えられた衆議院を基盤とする政党内閣の力で(憲法解釈ではなく民主主義の力で)、陸海軍という「統帥部」の独走を抑え込めるはずでした。
 たしかに吉野の期待どおりに、男子普通選挙制の下で衆議院の過半数を握った浜口雄幸や若槻礼次郎の率いる立憲民政党の内閣は、ロンドン海軍軍縮条約についても満州事変にあたっても、「統帥部」の主張や行動に、相当な抵抗を試みました。「立憲の本義」は「帝国」に対立しつづけたのです。しかし、「帝国」と「立憲」の対立は、普通選挙制と政党内閣慣行(「制度」ではありません)の成立によっては、解消できませんでした。戦前の日本では、両者の対立は、太平洋戦争という総力戦に突入するまでは解消しなかったのです。しかも、太平洋戦争の勃発によりまず「立憲」が敗北し、その戦争の敗北によって「帝国」の方も敗北したのです。
 1874年の台湾出兵により始まる「帝国」化と、翌75年の詔勅によって始まる「立憲」化の相克の歴史は、最終的にこうした不幸な結末へといたりました。しかし、そうであるにせよ――あるいは、そうであればこそ――そこから私たちが汲み取るべき教訓は大きいはずです。近代日本における「帝国」と「立憲」の相克とはいかなるものだったのか。以下、詳しく分析していきましょう。

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