小説家は多分、主人公たちの結末を知らずに筆を起こすのだろう。歴史学者も、ある程度までは同じである。ただ、小説の主人公たちと違って、歴史の主人公たちには、学者が勝手には変えられない「事実」の枠がある。明治元年(一八六八)の鳥羽・伏見の内戦で徳川慶喜に勝たすわけにはいかないし、明治一〇年(一八七七)の西南戦争で西郷隆盛を勝たせるわけにもいかない。
しかし、「事実」ではなく「事実の解釈」については、歴史学者にも相当な自由裁量権がある。自由裁量権といえば聞えがいいが、書き始めの段階ではまだ、個々の「事実の解釈」もなければ、結末についての解釈もないのである。歴史の研究書にも、書き上げてみないとわからない面が相当にあるのである。
そうだとすれば、本書の読者と同じように、本書の著者にも「読後感」があってもいいであろう。
私の「読後感」は、表題にかかげた通りである。元治元年(一八六四)の西郷隆盛と大久保利通は、堅い信頼関係で結ばれていた。一三年後の西南戦争で、官軍と賊軍の首脳として相戦うなどとは、夢にも考えていなかったのである。
単に人間的信頼だけではなく、革命期の指導者たちは、新国家の骨格についても見解は一致していると信じていた。欧米列強の外圧に対抗するために、政策的には「富国強兵」、体制的には全国の藩主と藩士を上院と下院に集めた議会制、この二点ですべての革命勢力は一致していた。革命の成功後に、「富国」と「強兵」が対立し、「富国強兵」と封建議会論とが対立するようなことは、彼らにとってまったく想定外の事態だったのである。
革命前の同志が革命成就後に激しく対立する事態は、明治維新の前にはフランス大革命の事例があり、維新以後にはロシア十月革命の場合がある。明治維新においても同じようなことが起こったのである。
本書を書きはじめる以前に、「革命後の分裂」については、私もいくつかの著作を発表してきた。拙著『近代日本の国家構想』(一九九六年、岩波書店)もそのひとつである。しかし、「革命前の団結」の方は、本書を執筆する過程で次第に姿を現わしてきた。先に、歴史書にあっても“書き上げてみないとわからない”部分がある、と記したのは、本書の前半部分についてのことである。
この「革命前の団結」は想像以上に強く、後世の歴史家に「アジア主義者」の元祖のように描かれてきた西郷隆盛も、「革命前」には大久保利通に引けをとらない「欧米主義者」だった。
天下の西郷隆盛を“牛”に喩えるのは気が引けるが、思想史音痴の私も西郷にひかれて佐久間象山参りに連れていかれた。思想史の専門家から見ればお粗末なものであろうが、今の私には佐久間象山を除いた明治維新は考えられなくなっている。西郷隆盛と佐久間象山の偉大さを確認できたことが、私にとっての最大の成果であった。
革命前の団結の堅さを書いた後で、自分では熟知しているはずの「革命後の分裂」に筆を進めると、分裂の激しさと鮮明さが、これまで以上に明らかになってきた。その点では本書の後半部分も、従来の自説の単なるくり返しではなくなっているはずである。
本書のもう一つの特徴は、「英雄史観」の肯定にある。一人の英雄の力は多数の信奉者の力の総和である。しかし今の私には、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、板垣退助抜きの明治維新は考えられない。各章の扉に「英雄」たちの写真が載っているのは、このためである。玄人好みの井上馨と五代友厚の写真を載せられなかったことだけが、心残りであるが。