PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

ゲームをやらないと馬鹿になる
世界から遠く離れたこのセカイで・1

PR誌「ちくま」8月号よりさやわかさんのエッセイを掲載します

 最近、植草甚一のことをよく考える。若い頃はさっぱり興味がなかった。とりわけ初期に彼が書いた文章は、日本でまだ情報の少なかった海外映画やジャズを熱意をもって紹介するものだったけれど、あまり惹かれなかった。恵まれた時代の若者だったんだから、しかたないじゃないか。
 でも最近は、彼の書いたことというより、そのあり方についてあれこれ考えている。植草甚一がエッセイ『ぼくは散歩と雑学がすき』を刊行して若者から絶大な支持を集めたのは一九七〇年のことだ。その時、彼はもう六二歳だった。おじいちゃんだ。それまでも彼はずっと海外の文化が好きで、ひとりであれこれと聴いたり読んだり見たりしていた。しかし、おじいちゃんになってからようやく、海外のことをもっと知りたいという新時代の若者たちが、彼らの欲求を満たす存在として植草甚一を見付けた。
 言い換えると、人々が注目しなくても、海外の文化はずっと存在していた。植草甚一とは、その存在を証明する定点観測としてあったということができる。
 しかし今の日本は、音楽なんて、ビルボードで年間一位が何だったかも大半の人が知らないようになった。今だって海外文化は存在している。植草甚一がいたら、それを証明してくれたはずだ。でも今はみんな、若者に限らずあまり海外に関心がない。
 僕が特にまずいなあと思っているのは、ゲームのことだ。日本でも最近はスマホ用ゲームが流行している。日本はゲーム大国だね、といまだに思っている人もいる。だけど世界的には、ここ数年でめざましい勢いがあるのは、プレステ4などの据え置き型ゲーム機だ。日本ゲームの国際競争力はおしなべて低下している。
 海外作品はかなり高度なものが多く、あなたにもぜひプレイしてもらいたい。だけどそう言うと、みんな「いや、そういうゲームは別に……」と言ってアイドルの話題に切り替えたりする。おい待てよ。
 なぜゲームをやった方がいいのか。それはゲーム以外のことまでわからなくなっていくからだ。たとえば映画。二〇一五年に公開された『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は日本でも大ヒットした。あの映画の冒頭で主人公マックスが坑道を逃げ回り、巨大クレーンにジャンプして掴まるまでのシークエンスは、まるで『アンチャーテッド』などの海外ゲームみたいな映像になっている。途中に一人称視点で挟まれる少女や死者のフラッシュバック映像も、サイコホラー調のゲームに定番の演出だ。
 今は日本も洋画ばやりだ。あの映画についても、多くの人が熱心に論評した。でも、あれがゲーム的だという見方は少ない。近年の洋画はVFXに有名ゲームのスタッフが投入され、物語や構図もゲームからの影響が色濃い。映画だけでなく、今や多くのカルチャーにゲームは影響を与えるようになった。でもゲームをやらないと、それがわからない。洋画は人気でも、なぜそのように作られているかわからない。世界的な動向が、どんどん正確に理解できなくなっていく。それでいいはずがない。
「でも、ニンテンドースイッチっていう、任天堂の新しいゲーム機は日本でも在庫切れになるほどよく売れてるんでしょ?」という人もいるかもしれない。けど、あれも海外だと簡単に買えるそうです。それも知られていない。そういうことも含めて、海外がどうなっているのかちゃんと知るのって、意味のあることだと思うけど。

 

PR誌「ちくま」8月号

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