ちくま学芸文庫

バーガーの楽観主義に学ぶ
ピーター・L・バーガー『社会学への招待』

PR誌「ちくま」8月号より、社会学者・岸政彦氏によるエッセイを公開します。先日、惜しまれつつ亡くなったピーター・L・バーガー。彼が1963年に執筆し、長年読みつがれてきた定番入門書『社会学への招待』(ちくま学芸文庫)を、現代日本において読むことの意義とは。その新たな可能性を拓く魅力的な内容となっています。

 社会学とは何だろうか、という問いに正面から答えるのはとても難しい。しかしそれが、近代化・都市化・産業化のなかで生まれたことについては、それほど異論はないだろう。社会学の問いかけのひとつは、「近代化、都市化、産業化が人間にとって何をもたらすのか」というものである。それはまさに近代が自己を了解するために生み出した鏡だったのだ。
 19世紀後半から20世紀初頭にかけての、この社会変動は、人間の存在基盤を根底から変容させていった。それまでの農村的価値観や社会規範や共同性が解体され、人びとは都市に集まり、巨大な産業に労働者として飲み込まれていった。文化は大量生産される商品となり、言語やイメージもマスメディアによって標準化されていく。こうした変化は、特に20世紀初頭から後半にかけて、アメリカを中心にして発生し、世界中にひろがっていった。当時のアメリカ社会は、こうした意味で、様々な国から異なる文化や言語や宗教を持った人びとが集まった、人類史上の偉大な「実験場」だったといえる。それは結局のところ、きわめて巨大な「相対化装置」として働いただろう。
 自分たちの社会のなかで、「他者という存在」とどのように共に暮らしていけるのか。これが社会学の成立時の問いかけだった。そして、ピーター・バーガーもまた、こうした問いを追求した。特に、宗教がこの100年のあいだに被った世俗化と相対化について考察した『聖なる天蓋』は、宗教を通じた社会の近代化を分析した古典的作品として評価されている。この意味で、バーガーは、きわめてアメリカ的な社会学者なのだ。
 しかし、いま改めてバーガーを読んで感じるのは、その奇妙なまでの「楽観的な相対主義」である。彼の社会理論の中心にあるのは、行為者と社会構造との相互構成過程である。簡単にいえば、社会的な構造や状況によって行為者の主観や感覚、経験、記憶、アイデンティティが構成される。同時に、行為者たちの個人的な行為や認識が重なって、社会構造を変えていく。社会と個人は、お互いがお互いを作り上げている関係にある。
 だが、社会が個人をつくり、個人が社会をつくる、というのは、はたして「理論」になるだろうか。「これもあるが、それもある」と言っているだけではないのか。同じように、たとえば行為者の自己が社会に対して相対的だとバーガーが述べるとき、そこにある種の「楽観主義」がある。どのジェンダーや階層、民族、人種、地域、宗教に属するかによって、私たちはそれぞれ宇宙人ほどもかけ離れた世界に存在することになる、と彼が述べるとき、その差異は、言うなればとても平板で、素朴で、単純だ。まるで男であることと女であることが、白人であることと黒人であることが、プロテスタントであることとユダヤ教徒であることが、先進国の中産階級であることと途上国のスラムの住民であることが、どこか簡単に交換できるような、「単なる差異」であるかのように語られている。
 90年代まではバーガーは、日本の社会学でよく読まれていたと記憶している。しかし最近では、あまり言及されることはなくなった。バブル以後の長いデフレのなかで、社会学のテーマもより深刻で切実なものに変わってきたように思うし、また本来そうあるべきだと思う。
 しかしまた同時に、矛盾するようだが、強く思う。いまこそバーガーの楽観的な相対主義が必要な時期なのではないだろうか。深刻さと切実さと誠実さを装う、単なる他者の不可知論が、ここ数十年ずっと、日本の社会学を覆っている。オーストリアにユダヤ人として生まれ、ナチス統治の下で育ち、やがてアメリカに渡ったバーガーは、他者と共存するリベラルなアメリカに希望を見出したに違いない。私とあなたは立場を交換してお互いを理解できるはずだという断固たる信念が、彼の理論の底を流れていたのではないだろうか。
 ちょうどこの原稿を書いているときに、バーガーの訃報を聞いた。生前の彼の言動は、「ウルトラ保守」とでも呼べるものだったらしい。そういう部分も含めて、ユニークな人生を生きた社会学者だった。
 1963年に書かれた『社会学への招待』の、他者の理解可能性に対する強固な信仰をもういちど大真面目に受け取る必要が、いまを生きる私たちにはある。このたび、本書が文庫化されたことを、心から喜びたい。

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