ちくま文庫

思い出すのは坂本九の笑顔
永六輔著『坂本九ものがたり』書評

32年前の8月12日、飛行機事故で亡くなった坂本九さん。死の翌年に刊行された永六輔さんによる評伝。岡崎武志さんによる書評記事です。

 人気ドラマシリーズで、主演を長年張った俳優(当時子役)にインタビューしたことがある。成長すると人気が落ち、酒に溺れたという。銀座のバーで酔い、その日搭乗券も買ってあった羽田発の日航機に乗りそびれた。一九八五年八月十二日、日航機一二三便墜落。酒のおかげで危うく難を逃れた。
 未曾有の航空機事故で命を落としたのは坂本九。享年四十三。みんなに「九ちゃん」と呼ばれ親しまれた国民的歌手だった。九は搭乗前、空港でジャズピアニストの世良譲と会っている。酒好きの世良に、「飲む量へらして下さいよ」と言って、手を振って、笑顔でゲートに消えて行った。九は飲めば飲めたが、人前では酒を慎んでいた。生死の運命を分けた、その皮肉に天を仰ぎたくなるが、九の代表曲は「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」と、「天を仰ぐ」歌だった。
『坂本九ものがたり――六・八・九の九』の「六」は永六輔、「八」は中村八大。「九」が坂本九。「スキヤキ」の名で日本初の世界的ヒットとなった「上を向いて歩こう」の作詞、作曲、歌唱のトリオである。気がついたら、誰もこの世からいなくなってしまった。
永六輔は著作の多い人だったが(ざっと百冊以上)、『芸人その世界』『遠くへ行きたい』『大往生』と、エッセイ集、もしくは断片集と呼ぶべきジャンルがほとんど。本書のように、まとまった著作は珍しく貴重だ。日記ふうの記述に断片や回想、エピソードが混在した書き方は、「夢であいましょう」ほか、永が構成として関わったバラエティ番組の作り方に似ている。ほとんど独擅場だろう。
 九歌唱による「上を向いて歩こう」を最初に聞いた時、「ウへホムフイテアハルコフホフホフ」と聞こえて腹が立った。しかし、九の幼少時に母や姉が親しんだ「義太夫、三味線」の世界だと納得した……など、何度も読んだり聞いたりした話も多いが、やっぱりこの人でないと書けない本になっている。周囲がチヤホヤする中、六輔は始終小言を申す煙たい存在でもあったのだ。
 六輔はよく九を「体制べったりの芸能人」であるなどと批判していた。その点について「永さんは、坂本九が嫌いだったんじゃないですか。それなのに、どうして坂本九を書くんですか?」と聞かれて答えた言葉が、本書の眼目を突いている。
「好きとか嫌いで書くんじゃありません。坂本九なら、彼の生きた時代が書けるからです。『上を向いて歩こう』をヒットさせた時までの九を通して戦後芸能史が書けるからです」
 戦後占領下の進駐軍キャンプとジャズブーム、ジャズ喫茶(現在のライブハウス)、日劇ウェスタンカーニバルの流行の中で、六・八・九がそれぞれの資質を持って頭角を現してきた。あくまで「九」の半生を追いつつ、六輔の筆法は「九を通して戦後芸能史」を書くラインをはずさない。
 曲直瀬信子率いる芸能事務所「マナセプロ」へ、九が加入することで、辞めていったのが水原弘。その水原の曲「黒い花びら」で初めてコンビを組んだのが永六輔と中村八大。二人は日劇前で偶然バッタリ会い、八大が声をかけ一晩のうちに十曲を作る。六輔にとっては初めての作詞。「黒い花びら」はその中の一曲で、一九五九年第一回レコード大賞のグランプリを獲得し、百万枚のヒットとなる。しかし、印税契約をせず、作詞料として六輔が受け取ったのは三千円(国家公務員上級職の初任給が一万四千円強の時代)。みんなウブだった。
 これで六輔・八大のコンビに曲の注文が相次ぎ、二人をテレビに誘い込んだNHKプロデューサー末盛憲彦により「夢であいましょう」がスタートする。黒柳徹子、渥美清がこの番組から人気者になっていく。そこに近づいたのがマナセプロの曲直瀬信子。着々と「上を向いて歩こう」誕生の基盤が作られていく。こうした奇跡のような因縁の数珠つなぎに、芸能史好きの私など、興奮しっぱなしである。
 この評伝を連載中の一九八六年六月八日、渋谷ジァンジァンで「六・八・九の九」というステージを持ち、そこにゲストで来た坂本スミ子がこう言った。
「九ちゃんの笑顔というのは、その裏に淋しさとか苦しさのある笑顔ではなかったと思う。人は、笑顔の裏ということをよく言うけど、九ちゃんのは、誰のためでもない自分のための笑顔で、その笑顔で自分を励まし続けていたんやと思います」
 東日本大震災後、その「笑顔」が歌った「上を向いて歩こう」が、悲痛にある日本人を励ましたことを我々は忘れない。『坂本九ものがたり』を読んで思い出すのも、その「笑顔」である。
 

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