学問分野にはそれぞれ旬の年齢というものがあるのではないだろうか。概していえば、理系は若いころが旬であるが、文系はいささか経験を積んで円熟した齢がいいように思う。本書のような自然と文明の関わりをめぐって歴史をたどる試みが成功するには、数年前の執筆時に四十代後半だった著者は文理融合にはまさしくふさわしい王道にいた。
著者は考古学と古代史を学び、前一千年紀の地中海世界を専門としている。これらのギリシア文化研究者のなかには、古代ギリシアが西洋流の生活様式の原点であることを信じて疑わない傾向がある。著者もまたケンブリッジ大学大学院に在籍しはじめたころには、同じ信念に凝り固まっていたという。
ところが、いろいろな分野の研究者を知るようになると、さまざまな地域や時代がどれほど多様であるとともに類似した局面をもつことに気づくようになったらしい。そこで、世界史あるいは人類史の規模にまで広げつつ、グローバルな視点で解明しなければ、真相は浮び上らないという試行が生まれる。
およそ六万年前から、アフリカにいた現生人類が移動して地球上に広がったころは東西の違いはなかった。ところが、多くの研究者は過去五百年ほどの期間しか見ていないので、西洋が世界を率いることを当然と思っている。だが、それ以前の時代までさかのぼれば、成長や停滞、破綻、収斂、指導力の変化などを誰も説明できないことが少なくない。西洋の支配をふくむ歴史の全体像がつかめなければ、未来に何が起こるのかも語れなくなる。
そこで著者は従来のアプローチを大別して二つあげる。一つは、太古の昔に東西は異質な世界になり、そのために西洋は産業革命に到達したという長期固定理論がある。もう一つは、アヘン戦争直前の十九世紀になってはじめて西洋は東洋をしのいだのであり、それもほとんど偶然の出来事だったという短期偶発理論がある。これに対して、著者は「社会発展指数」なる手法を取り入れ、過去を計る作業を提案する。国連の人間開発指数に示唆された「エネルギー獲得量、組織化、戦争遂行力、情報技術」の四つを点数化したものである。
それによれば、最終氷河期が終わり、農耕が開始されたころ、ユーラシアの西端と東端に文明のコアが生まれた。気候と生態系の変化のために西洋は早く発展し、社会発展指数には伸縮の差はあったにしろ、おおよそローマ帝国の末期まで西洋が高かった。だが、その後の千年間以上は東洋が優位に立つほどだった。
もちろん本書はこれらの数値をあげるだけでなく、古今東西の歴史のエピソードもふんだんに持ち込んでいる。たとえば、ヴィクトリア女王の愛夫アルバートが北京に連れ去られたり、十五世紀前半に永楽帝に命じられた鄭和がアステカ王国の首都を訪れたりするという虚構の物語すらあげられ、読者をドキリとさせる。現実にそれが起こらなかったことで、歴史を考え直させるという仕掛けなのだ。
さらにまた一千年紀の前半に、東アジアで仏教が目覚ましく普及したころ、ローマ帝国の地中海世界でもキリスト教徒が驚異的に増大している。高度な国家が崩壊しつつあるとき、救済宗教が拡大したのはなぜか。それは社会発展の原因というより結果なのだ、と著者は指摘する。
個々の数値やグラフを見れば、細部はともかく、ラフスケッチとしては納得のいく議論になっている。ともすれば、考古学者や古代史家は近現代社会の歴史や文化の研究者の陰にかすんで忘れ去られがちなもの。古代や先史時代にまで目を向けなければ、壮大な世界史・人類史の流ればかりか、未来をも見失ってしまうかもしれない。この著者の主張には、同じく古代史研究者である評者は心から頷かされる。