いまから九十年ほどまえ、沖縄・首里の坂道を毎日歩いていたのは香川生まれの鎌倉芳太郎である。一九二一年(大正十)に東京美術学校を卒業し、教師として赴任したばかりの二十三歳だ。かつて琉球王国の首都として繁栄した首里は、丘のうえにそびえる首里城を中心に士族屋敷がつらなっていた。
鎌倉は、しだいに琉球文化に魅せられてゆく。彼が下宿した座間味家は代々王府に仕えた一族であり、王国の歴史が語りつがれ、日常のなかに古典芸能が息づいていた。優美な首里言葉が交わされ、鎌倉は首里言葉を身につけていった。やがて当時、勃興期にあった「沖縄学」の研究者たちとの出会いをきっかけに、鎌倉は大々的な琉球芸術調査に着手する。
美校の人脈を背景に建築家・建築史家の伊東忠太の支援を受けたうえ、日本初の本格的学術財団「啓明会」から資金援助を得るという幸運も重なる。鎌倉の調査は、断続しながらも昭和十一年までつづけられ、八十一冊のフィールドノート、ガラス乾板など二千五百点の写真資料、古文書文献、さらに大量の紅型型紙などを残した。この調査で彼がテーマとしたのは、芸術・文化・歴史・民俗・宗教・言語など幅広いこともほかに例をみない。その調査地域も北は奄美から沖縄本島、宮古・八重山の島々、台湾まで直線距離にして約八百キロにたっした。
だが、鎌倉の調査は戦争の影が濃くなるなか、かえりみられなくなっていた。それでも彼は収集した資料を戦中は防空壕のなかなどで守りぬき、のちにそれらの資料は、戦後の紅型復興、首里城復元(一九九二年)の大きな力となるのだ。
私が鎌倉を知ったのは、一九七二年、沖縄の「本土復帰」の年に開催された「50年前の沖縄」展だった。鎌倉が大正末期から昭和初期に撮影した大量の写真の存在がその前年に、半世紀ぶりにあきらかになったのだが、そこに写されていたのは、沖縄戦によって消えさったもの、「遺影」というべきものだった。
そのときからずっと気になっていた鎌倉の生涯と、彼が出会った近代沖縄の人びとのすがたを追ってみようと思いたった。私は十九歳から南への旅をくりかえしており、鎌倉が調査した島々をすべて歩いていたことも、彼をしたしく感じた理由のひとつなのかもしれない。
鎌倉の調査には多くの沖縄人が協力している。失意のなか上京する「沖縄学の父」・伊波普猷、若くして水死してしまう博覧強記のジャーナリスト・末吉麦門冬、紅型技術を継承する人びと、八重山で出会った王国最後の絵師など多数におよぶ。それぞれに苦悩しながらも琉球の時代に思いをはせた沖縄人だ。その群像も丁寧に描くことができれば、近代から現在までの沖縄の時間が浮かびあがるかもしれないと考えたのだった。
私も首里をいくどとなく歩いたが、ふと坂道で立ち止まった夏のさかりの午後、琉球人、沖縄人たちの幻影を見たような気がした。それは若き鎌倉の体験でもあったと思う。
近代沖縄は、琉球・沖縄とはなにか、という「問い」を生んだ時代でもある。琉球王国崩壊、すなわち日本による琉球併合がなされ、本土との同化が進行するなかだからこそ「沖縄学」は発展していった側面もあるのだが、いっぽう、大正末期は王国時代の記憶が鮮明な人びとも存在していた。鎌倉が歩いた坂道は、琉球と沖縄をむすぶ「時の坂道」でもあったのだろう。私はその坂道のイメージをふくらませながら旅をつづけた。
資源も武力も乏しい小王国は、海外交易を展開して諸国との交流をはかり、独自の文化をはぐくみ国の力としてきたが、いくたびもの艱難に直面した。米軍基地にかこまれる今日においても、祖先たちの足跡を胸に刻みつつ、日本にとってわれわれは何者なのか、という問いを手ばなしてはいない。
「本土からの旅人」であった鎌倉も、この深奥な「問い」に導かれ、歩き、島々へとわたる船に乗ったのだと思う。