誰もが人にものを教える時、相手にわからせたいという強い欲求を持つ。それはまるで本能のようだ。教師は仕事柄、常にその欲求を抱えている。一方、学びたいという生徒ばかりではないので、教師の努力は空回りし、強いストレスを抱えることになる。生徒がまったくこちらを向いてくれない時の絶望的な気分は、経験したことがない者にはわからないだろう。
だから、教師はさまざまな工夫をする。私の教科である社会科は工夫の余地が多い。独自プリントはあたり前、視聴覚教材の活用に加え、作業学習、班学習、発表形式などいろいろな実践がある。各種の研修もあるし、職場の同僚と勉強会もした。実際にいろいろ試してみたが、授業と教師の個性は切り離せないようで、人の実践をまねしても、なかなかうまくはいかない。また、考えた末に試した方法が、思うような効果があがらなくても、年度途中でやりかたを変えると生徒の不信感を招くし、こちらも失敗を認めるようで変えにくい。だから、改善は翌年度となる。教師は一年単位でジリッジリッとしか前進しないものである。
私の専門である世界史は、知識伝達型の教科なので、どうしても板書して解説という一斉授業が基本となる。この枠のなかで、自分にあったスタイルは何なのか。試行錯誤はつづいた。
やがて、気づいたことがあった。講義や説明、解説ではそっぽを向いている生徒も、教師が語る「お話」には耳を傾けるということである(試みに、ある本を朗読したことがあったが、これはダメだった。直接語りかけないと響かないようだ)。
そこで、できる限り物語風に世界史を語ろうと心がけるようになったのが十年ほど以前のこと。この形を意識した年度の最初の授業で「ガウェインの結婚」の話をした。アーサー王伝説のひとつで、史実ではないが魅力的な話であり、なによりも私の授業スタイルの宣言だった。ほぼ一時間「お話」をするわけで、冒険だったが、どのクラスでも生徒は静かに話に聞き入り反応は上々だった。こうして、「お話世界史」の授業が始まった。
幸い歴史は物語の宝庫である。制度や文化の分野では難しいことも多いが、ネタ集めと構成がうまくいくと、生徒が集中して確かな手応えを感じることになる。授業終了直後、生徒が教壇まで駆け寄って来て「先生、このつづきどうなるん? 次の授業が楽しみだわ」と言ったことがあった。授業者にとってこれ以上の勲章はない。「毎日遅刻するA君が、世界史が1時間目の日は遅刻しないよ」と別の生徒に言われたことも忘れられない。生徒と波長が合うと、こういうことも起こるのだ(現在の私の授業がうまくいっているわけではないですから!)。
その頃、ちょうど始めたインターネットで教材研究に役立つサイトはないか、授業のネタはないかと探したが、欲しい情報ほどないものだ。それならばと、自分で作ってしまったのが、この時の授業を記録した「世界史講義録」である。
同業者からの助言やネタの提供、批評や批判を期待してはじめたのだが、そちら方面からの反響はほとんど無く、社会人からのメールが一番多かった。次が現役高校生。何年目かに「うちの世界史の先生が『世界史講義録』を印刷して配ってますが、そんなこと許していいんですか」と義憤に駆られたメールをもらって、はじめて同業者からの認知され具合がわかったりもした。ネット上の情報は誰がどう使うか予想もつかない。
そんななか、早大の竹田青嗣教授が学生に「世界史講義録」を読むようにすすめておられるという話が発端となって、ちくまプリマー新書への執筆依頼が舞い込んだ(竹田先生には『中学生からの哲学「超」入門』で取り上げていただいた)。こうして、「世界史講義録」から、三大宗教成立に関わる部分を中心に再構成して『ものがたり宗教史』ができあがった。物語風の叙述ではないが、お話を意識した授業が「ものがたり」と題される本になったことは、私の授業の根本を伝えているようで、編集者さんにはよい題名をつけていただいたと思っている。