ちくま学芸文庫

網野善彦と山本七平
網野善彦著 『日本の歴史をよみなおす(全)』

「大きな物語」がいつ終わったのか、と問うとき、国際的には五月革命やプラハの春の1968年、わが国では連合赤軍事件の72年を目処とする見方が強いようだ。教条的なマルクス主義が失墜し、一方でそれへの対抗を軸に正統性を獲得してきた反共自由主義の意義も不明瞭になって、世界の全体を意味づけてくれるストーリーが見出せなくなる時代。日本では70年に三島由紀夫が割腹自殺を遂げ、「皇国史観」の物語もまたこのときに終焉を迎えている。
 66年に第一作『中世荘園の様相』、74年に初の一般書『蒙古襲来』を世に問うて出立した網野善彦の歴史学を、かような時代における新たな物語の模索として読むことはできないか。その際に意外な補助線となるのが70年、ユダヤ人を装って著した『日本人とユダヤ人』で論壇に登場した山本七平である。当人はおそらく意識すらしなかったろうが、この七つ違いの二人の軌跡には、不思議と好一対になっているところがある。
 マイノリティの視角に立つ日本史叙述で知られる網野は元来、戦後政界では保守政治のドン・金丸信の地盤にもなった山梨県の大地主層の生まれ。東京高等学校から東京帝大へと進み、もし敗戦後に共産革命がなっていれば、インテリゲンチャとして指導する側に立ったろうサラブレッド。戦時下の旧制高校時代、いかに犬死にを免れるかを考えていた非戦派の自分や渡邉恒雄(現・読売新聞会長)とは異なり、おそらく網野は「死んでもいいって、日本帝国のために死ぬべきだっていうことを言った」だろうとは、級友だった氏家齊一郎の弁である(『昭和という時代を生きて』岩波書店、2012年)。
 一方の山本は、内村鑑三を範とする家庭で育てられた無教会派のクリスチャンで、青山学院高等部の在学中に徴兵を迎えている。高澤秀次『戦後日本の論点』(ちくま新書、2003年)が示すように、遠縁には大逆事件の刑死者・大石誠之助がおり、一族の郷土はやがて中上健次を生む和歌山県新宮市。水田に乏しく漁をもっぱらとした紀南時代の思い出を、父母に聞かされたことの影響か、生涯を通じて米食へのこだわりがなく「日本人は先祖伝来、米を主食としていたように思われがちだが、昭和のはじめですら、そうはいえなかったのではないか」(『昭和東京ものがたり』1990年。現在は日経ビジネス人文庫、2010年)とは、網野ではなく山本の回想だ。
 世が世なら、山本好みの帝王学・参謀学を紐解いて治者の側に立ったかもしれない網野と、出自としては「網野よりも“網野史学”的」な世界を生きてきた山本。しかし、1950年代初頭の国民的歴史学運動から脱落したことで、日本帝国に次いで日本共産党にも裏切られた網野は徹底した「日本」の批判者へと転じ、逆に山本は独自の日本学を築く過程で、初期の軍隊三部作に見られた苛烈な日本批判をむしろ緩めてゆく。その二人の軌跡が交錯したのがまさに70年代前半、南北朝叙述をめぐる意図せざる同調だった。
 網野の『蒙古襲来』と同じ時期、連載「ベンダサン氏の日本歴史」(没後に『山本七平の日本の歴史』として公刊、ビジネス社、2005年)で『太平記』の読解に挑んだ山本は、中国思想にかぶれた狂王としての後醍醐を徹底的に批判する。自身を中華の天子に擬するかのような後醍醐の妄想は、戦時下の大東亜共栄圏と同類の幻想であり、その破綻は――三島の孤独な自決と同じく――日本社会における必然であって、後醍醐が敗れたからこそ今日の日本の「太平」があるのだと。戦後の「人民」による革命の挫折後、後醍醐と悪党たちによる「革命」にどこか期するところのあった網野とは同じものを正反対から眺めることで、二人の人生はここで入れ替わったのだろうか。
 網野は革命のできない日本を、山本はむしろ革命の必要のない日本を、ともに1970年代前半に自身の物語によって位置づけようとした。もっとも、彼らが描いた物語もまた「大きすぎた」のかもしれないことは、たとえば後醍醐にはそもそもさしたるビジョンなどあったのか、という近年の専門研究の見解によっても知れる(呉座勇一『戦争の日本中世史』新潮選書、2014年)。しかし、昭和の激動を生きた二人の史論がいまなお多くの人を誘うのは、それが今日の日本にとっても本質的な問いを射ているからだろう。その仔細は河野有理編『近代日本政治思想史』(ナカニシヤ出版、今夏刊行予定)に寄せた拙文でも論じているので、手に取ってもらえることがあれば望外の幸いである。

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