ちくま学芸文庫

『自然の家』は自然だろうか

 フランク・ロイド・ライトは僕の最も敬愛する建築家である。二〇世紀を代表する建築家であり、旧帝国ホテルの設計者として、日本人にもなじみが深い。本書はその彼が八七歳の時に、彼の思想の集大成として出版した本であり、ライト教の信者(ライトには他の建築家にも増して、生前から大変な数の信者がいた)からは聖書扱いされている、きわめつきの本でもある。
 しかし、「聖書」にしては、意外に俗っぽいのである。彼を取り巻く建築業界、彼を批判した建築家――たとえば旧態然とした古典主義建築を依然として作り続けている連中、逆にコルビュジエ、ミース流の二〇世紀前半に一世を風靡したモダニズム建築に傾倒する人々――に対するライト一流の過剰攻撃、毒舌が満載で、いってみればこのオジーチャン、八七歳のくせに少しも悟りきっていないのである。「自然の家」という浮世離れしたタイトルから連想されるような時代を超えた透明な書物というよりは、時代に規定され、ライバルとの日々の格闘技の武器として用いられた、きわめてナマナマしいドキュメンタリーなのである。タイトルとそのギャップがとても面白かったし、またそのような悟らないジーサンだったからこそ、ライトはあの年まで元気で、死ぬまで創作意欲が落ちなかったのかもしれない。ナマナマしい人間だったからこそ、その思想は力強く、普遍的であるともいえるのである。
 考えてみれば、「自然」などという概念は、もっとも時代や場所に規定されやすい、曖昧でなんとでも定義しようのあるものなのかもしれない。小林秀雄はかつて、自然に帰れという言葉は歴史上何度も繰り返されてきたが、その帰る所の「自然」は、いつも別々だったという意味のことをいっている。その指摘はこの本にもぴったりあてはまる。
 なかでも昔は気がつかなくて、今、新訳を読み返して気づいたのは、ライトはやっぱり二〇世紀アメリカの子なんだなあという事実である。彼は都市から離れれば離れるほど幸せになると信じていたし、とはいえ機械のことも大好きだったのである。この本の中でも彼は都市からどんなに離れたって車があればなんとかなるといって、自然の子が同時に自動車の子であることを恥じないし、近くの郊外は駄目だが離れればまだまだいくらでも自然がある、と無限な国土を疑うことなく無邪気に語っている。われわれはすでにガソリンまき散らす車で田舎暮らしすることの矛盾に気づいているし、六八億人にふくれあがった地球人全員がそんな形で田舎暮らしを指向したら、それこそ環境はとんでもなく破壊されるということも、すでに知っている。ライトがこの無邪気なアメリカ的信念を「民主主義的建築」と呼んでいるのはきわめて示唆的である。まさに二○世紀アメリカの「民主主義」は、このように無邪気で自己中心的な恵まれた坊ちゃん達の自由を保証するシステムであったわけで、そのフィクショナルな無邪気さがリーマン・ショックで露呈したともいえる。サブプライムローンがすべての人に夢のオウチを与えるというシステムで、そのフィクションがこの経済的破綻のきっかけになった事実を思い起こしながらこの『自然の家』を読むのは、ちょっとしたホラーでもある。
 しかし、ライトは、そんなこと軽くお見通しだったという気もする。終章の日本・アジアへの熱烈なラブコールは、アメリカ文明、アメリカの民主主義とアメリカ流「自然」の限界の先に、彼が東洋に望みを託したと読めないこともない。事実ライトは、老子や岡倉天心の大ファンで、日本の浮世絵や伝統建築からものすごく多くのことを学び、彼の建築スタイルを獲得したのである。自分のやっていることは、老子の哲学の単なる実践であるとまで、彼は東洋を持ち上げている。それゆえ彼の建築は二〇世紀アメリカをはるかに超えた射程を獲得しているように僕には思える。今この危機にあって、まさに世界の経済状況、環境問題と照らし合わせて読むべきスリリングな書物である。

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