短短小説

第17回 引っ越し

ちくま文庫のロング&ベストセラー『うれしい悲鳴をあげてくれ』の著者であり、作詞家・音楽プロデューサーのいしわたり淳治による書き下ろし超短編小説の連載企画!!

 

 駅前のコンビニで適当にビールを買って、教えられた住所をスマートフォンの地図アプリに打ち込むと、三分ほど歩いたところで唐突に道案内が終了した。「マジかよ。ここか。随分いいマンションだな」
 友人の引っ越し祝いに来たのだが、着いたのは駅前にあるまだ新しいタワーマンションだった。思えば、前に住んでいところも結構良い物件だったが、今度のマンションはその比ではない。
 大学時代から引きこもりがちで、ゲームばかりしている口数の少ない地味な奴だった。ゲーム関係の会社に就職したのは知っていたが、この十年の間に随分と出世したのだろう。大学卒業後も半年に一回くらいは会っていたのに、あいつが自分の近況を喋らないので全然知らなかった。
 ──ピンポーン。ピンポーン。
 エントランスにあるインターホンで四桁の部屋番号を押す。番号は25から始まっていた。それはおそらく二十五階の部屋であることを意味しているのは想像に易しい。
 ──ジ、ジ、ジジジ。ブツッ。ガシャ。
 こちらの顔がモニターで見えたのだろう。スピーカーからノイズだけが聞こえて、エントランスの自動ドアが開いた。
 真っ白い大理石の廊下を奥へ進むと、エレベーターホールで若い女性がエレベーターを待っていた。散歩の帰りなのだろう。キャンバス地の小さなトートバッグと真っ黒いトイプードルを抱えている。
「キャンキャンキャン! ガルルルルル」
 女性の隣に立った瞬間、犬が牙を剥き出してこちらに向かって激しく吠え始めた。女性は気にする様子もなく、退屈そうにスマートフォンをいじっている。
 ──フォーン。
 エレベーターに乗り込むと女性は最上階の三十五階のボタンを押した。犬はまだ吠え続けている。最上階に住んでいるのだから金銭的には裕福に違いない。しかし、この程度の犬の躾も出来ないようでは心のほうは貧しいとしか言いようがない。マンションの住人たちもさぞかし迷惑をしていることだろう。
 ──フォーン。二十五階です。ドアが開きます。
 犬の鳴き声から解放されてエレベーターを降りると、ふわっと足が沈み込んだ。廊下には高級ホテルのように毛足の長い絨毯が敷かれている。視線を上げて言葉を失った。
「マジかよ……」
 エレベーターホールにある巨大な窓からは東京の夜景が一望出来た。遠くでスカイツリーが明滅している。

 ──ピンポーン。
 長い廊下を奥へ進んで部屋を探し当て、インターホンを鳴らすと、しばらくしてドアが開いた。
「よう」
 生きているのか死んでいるのか分からない青白い顔をした、ダイナミックな寝癖頭の男が出て来た。大学生の頃から着ている毛玉だらけのスウェットを今でもまだ着ている。良かった。どんなにいいマンションに引っ越しても、こいつは昔から何も変わっていない。
「これ、ビール。引っ越し祝いに」
「おう。入れよ」
「すごいマンションだな」
「そうか?」
「すご過ぎるだろ。成功者の家って感じ」
「何も成功なんかしてないよ」
 廊下を抜けてリビングに入ると、開けっ放しの段ボールと荷物が床に散乱して足の踏み場がない。まだカーテンの付いていない窓からエレベーターホールで見た方角とは反対側の夜景が見えた。
「それにしてもすごい景色だな」
「そうか? まあ、とりあえず。乾杯」
「ああ、乾杯」
 立ったまま鈍い音を立てて缶ビールをぶつけた。
「ちょっと、部屋見てもいいか」
「別にいいけど。汚いぞ」
「何だよ今さら。お前の部屋が綺麗だったことなんて一度もないだろ」
 昔からこいつの家は呼吸するのも嫌になるほどのゴミ屋敷だった。今も片付けられない性格は相変わらずのようで、汁が入ったままのカップ麺の容器が何個もテーブルの上に置かれ、くしゃくしゃになった生乾きの洗濯物がソファの上で異臭を放っている。
「片付けの好きな女でも見つけて結婚しろよ」
「無理だ」
「っていうか、お前、彼女いたことあるのか」
 自然に口から出たが、言った瞬間、妙な違和感を覚えた。思えばこいつにプライベートの話を聞いたのは初めてかも知れない。
「ない。他人に興味がないんだ」
「友達もおれくらいしかいないもんな」
 そう言って自分でも不思議に思った。おれは何でこんな奴と友達を続けているのだろう。でも、こいつのような他人に興味がないタイプの人間と喋るのは不思議な癒しの効果があることは確かだ。人間関係に疲れると、何となく会いたくなる。
「じゃあ、家政婦でも雇うとか」
「他人に家を荒らされるなんて考えられない」
「荒らしてるのはお前だろ。おれにはゴミ屋敷で暮らす方が考えられないけどな」
「どうせ家なんて帰って寝るだけだろ」
「ふっ。その理論でいくと、帰って寝るだけの家がこんなに豪華である必要もないだろ」
「会社に近いんだよ」
「馬鹿言え。もっと近くて安い部屋はあるだろ」
「不動産屋と会話するのも面倒だったから一件目で決めたんだ。悪くない条件だったしな」
「マジかよ。お前、やっぱり変わってるな」
 喋りながらリビングを歩き回って備え付けの棚を開けては閉める。収納力もこの上ない。だが、どこにも物は入っておらず、荷物はすべて床に散乱している。まったくもって勿体ない。
「トイレ借りてもいいか?」
「ああ。廊下に出てすぐ左のドアだ」
 ドアを開けると、勝手に電気が点いて、勝手に便座の蓋が上がった。用を足してズボンを上げていると、今度は勝手に水が流れた。ほとんど何も触れずに済んだのに、手を洗って掛けてあったタオルで手を拭いたのが間違いだった。手から雑巾のような異臭がした。
「すげえな。幽霊が出ても便座の蓋が上がったりしてな」
「幽霊じゃあ上がらない」
「いや。まあ、そうだろうな……。冗談だよ」
 こいつはいつも真顔だから、なんだか調子が狂う。
「うわー。風呂もすごいことになってるな。これ、ジェットバス?」
 浴室を覗くと、大きなバスタブに泡の吹き出す穴が見えた。
「使ったことないけどな。たまにシャワーを浴びるだけだ」
「もったいねえなあ……」
「そうか」
「おれが住みたいよ。で、そっちの部屋は?」
 リビングに戻って、引き戸で仕切られた部屋を指さした。
「寝室だ」
 戸を開けると小さなフローリングの部屋が現れた。薄汚い布団が一枚敷かれ、床に直接置かれた大画面テレビに幾つもゲーム機が繫がっている。布団の上には様々なコントローラーが散らばっていた。
「ここは大学生の頃の部屋をそのまま持って来た感じだな」
「そうかもな。布団も同じだしな」
「マジかよ。お前、まさか布団、干したことは……」
「ない」
「おう……そうか。だと思ったよ」
 そっとドアを閉めた。想像しただけで身体が痒くなった。
「ここって、間取りは?」
「このリビングと、寝室と、あと玄関の脇にもう一部屋で2LDK」
「へえ。もう一部屋あるんだ?」
「でもそこは入るな」
 大丈夫だ。こんな不潔な男が入るなと言う部屋に入る勇気なんて持ち合わせていない。
「なあ。ここ家賃いくらなんだよ」
 夜景を見下ろしながら聞いた。
「安いよ」
「まさか。安い訳ないだろ。あ、会社から家賃補助が出てるとか?」
「いや、出てない」
「じゃあ、何でだよ。まさかお前、金銭感覚が麻痺してんじゃ……」
「ここ事故物件だからな」
「えっ……?」
 思いがけない言葉が返って来て頭が真っ白になった。一瞬の沈黙が流れる。
「……自殺?」
「他殺」
「あ……そう」
 おれは何を聞いているんだろう。しかも最悪な方の答えが返って来てしまった。だが、そうなるとなおさら家賃を聞いてみたい気もする。深呼吸をひとつして、平静を装って質問を続けた。
「……そういう事故物件ってさ、どれくらい安いもんなの?」
「ここはかなりヤバい事件だから安いよ。たぶんニュースでお前も知ってるやつだ。誰も住まないから最高級の設備にリフォームしたんだろうな」
「おい。お前、頭おかしいんじゃないのか。何でそんな物件選ぶんだよ」
「別に。おれ、昔から事故物件にしか住んだことないからな」
「えっ? 前の部屋も……?」
「もちろん。その前も、その前の前も。大学生の頃に住んでいた部屋も」
 相変わらずの真顔で淡々と答えて来る。こんなことならもっと早くこいつのプライベートをちゃんと聞いておくべきだった。いくらこいつが他人に興味なくても、おれはこいつには興味を持っておくべきだった。
「不動産屋に行ったら、最初に事故物件がないか聞くんだよ」
「……何で?」
「何でって、じゃあ逆に、何でお前は事故物件に住まない?」
「そんなの単純に……怖いじゃん」
「何が怖い?」
「霊が出たら、怖いじゃん」
「それは違う」
「違う? 何が?」
「じゃあ聞くけどな、仮にこの部屋に霊が出るとするだろ。なら、その霊は何のために出るんだ?」
「何のためにって、住んでる奴を呪い殺すとか……」
「こんなクズ人間のおれを? わざわざ呪って霊にメリットがあるか?」
「メリットは知らないけど、霊からしたら生きている人が恨めしいとか……」
「おれが羨ましい? こんな臭くて汚い部屋で、友達も彼女もいない、カップ麺ばっか食って、貯金もない、希望もない、喜怒哀楽の感情も表情もない、休みは部屋でゲームをして、死んだように生きている、こんなおれが羨ましい?」
「いや……まあ、その」
 正直、羨ましくはないかもしれない。唯一この部屋だけは羨ましかったが、事故物件だと知った瞬間、その気持ちも消えた。
「あ……いや。じゃあ、呪い殺すっていうかさ、ほら、あれじゃない? 霊は先にこの部屋に住んでた訳だから、それを邪魔されたから入居して来た奴を追い出そうとして、嫌がらせをするとか?」
「そう。正解」
 いったいおれは何のクイズを答えているのだ。正解と言われても、ただひらすら薄気味悪さが増して行くだけだ。
「正解……? 何だよそれ。お前、霊に聞いたのかよ。ははは……」
「聞いたよ。霊と話せるから」
「……えっ?」
 ガラス玉のような目で真っ直ぐに見つめられている。
「お前が入ってない部屋があるだろ」
「ああ……」
「あそこに霊が住んでる」
「住んでる? ……同棲?」
「同棲はしてない。強いて言うなら家庭内別居あるいは二世帯だな」
「霊は……その部屋から、出て来ない?」
「出て来ない。引きこもっている」
「えっ。引きこもっている? 霊が……?」
「ああ。霊はただ静かに過ごしたいだけだからな」
「静かに過ごしたい……?」
 何を言っているんだ、こいつは。
「成仏しないで霊になるようなタイプは、だいたいナイーブで人間関係が下手な奴だからな。見ず知らずの誰かと一緒に暮らすなんて絶対に出来ない。そんな霊が、入居者を邪魔者扱いして呪い殺してみろ。もし恨まれて霊になって住み着かれたらどうする? 本格的にそいつと同居する羽目になるだろ。だから呪い殺すのは、かなりリスクが高い」
「リスクが……高い? ちょ、ちょっと待て。霊の気持ちを考えたことがないから、よく分からないんだけど……そういうもんかね」
「そういうもんだ。だから、霊は入居者に嫌がらせをして追い出そうとするんだ。でも、それも結局意味がない。なぜなら、すぐに別の誰かがまた住むからな。事故が起きて二人目以降の入居者には不動産屋も事故物件の通知義務が消えてしまう。そうなると、その部屋はただの家賃が安いフルリフォーム済みの優良物件になる。そんな人気物件は、追い出しても追い出しても、すぐに誰かが住む。体力の無駄、ただ疲れるだけなんだ」
「疲れる? ……霊が?」
「ああ。霊も疲れる。それでも、徒労だと分かっていても霊は嫌がらせをして人間を追い出す以外に手がないんだ。だから、おれみたいな話の分かる奴が住んでくれることを望んでいる。おれは絶対にあの部屋に入らないから、霊もおれには何もして来ない」
 話がおかしな方向へ進み始めている。しかし、こいつが冗談を言うとは思えない。おそらく全部真実なのだろう。
「なるほど。つまり、この家には、霊が……」
「いる」
「だよな……」
 その部屋の方向をそっと見た。扉のすぐ向こうに霊がいると思うと、ぞわっと鳥肌が立って吐き気がして来た。
「ゲームでも、するか?」
「あ、いや、悪い。明日仕事早いから帰るわ……」

 帰りの電車に揺られながら、霊のことを考えていた。確かに、漠然と事故物件は怖いと思い込んでいたが、なぜ怖いのかは考えたこともなかった。
 ──新宿。新宿。
 混み合う車内でずっと目の前の優先座席がひとつだけ空いていた。皆が座ることを敬遠していたその席に、乗り込んで来た若い男が座った。すぐ後に乗った妊婦がお腹を抱えて若者の前で吊り革を握っている。こんなことならこの席に座っておけば良かった。本当に必要な人のために自分が席を確保しておいて、譲れば良かった。
 ──ドアが閉まります。
 電車が走り出すと、若者が足を組んで居眠りを始めた。揺れる度に若者の靴底が妊婦の腿に何度もぶつかる。妊婦は顔をしかめて揺れる車内をふらつく足取りで移動していった。
 もしかしたら優先席というのは事故物件とよく似ているのかもしれない。誰もがなんとなく思い込みで座ることを敬遠するが、それは本当の意味とは違う。座ること自体は悪ではない。譲らないことが悪なだけだ。事故物件もそこに住んだから不幸になるのではない。霊の生活を邪魔するから不幸になるのだ。
 思い込みを捨てれば、おれもあんな豪華なマンションに住めるのだろうか。次に引っ越すときは、あいつと不動産屋に行って、内見をして、霊の声を教えてもらうとするか。……いや、まさか。想像しただけで、またさっきの鳥肌と吐き気が襲って来てすぐに我に返った。

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