昨日、なに読んだ?

File30. 佐藤文香・選:《うしろから》でも読める本
佐藤雅彦『新しい分かり方』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。 【佐藤文香(俳人)】→→松井周(劇作家/演出家)→→???

 お酒を出すタイプのカフェでバイトしていたとき、ワインのコルクを抜くのが異常に下手で困った。コルクの端をオープナーで突き破り、木屑の入ったワインになってしまうこともしばしばで、バイト中はできるだけワインの開栓にあたらないといいなぁと、いつも思っていた。
 が、あるとき、私が例によって開栓に悪戦苦闘しているのを見たバイトの先輩が言った。

「これ右利き用にできとうねんで」

 うわっ。そうだったのか。というか自分は今まで、何のためらいもなく左手でワインオープナーを扱っていたのか。そして多くの人は、右手でこの道具を使うのか。試しに右手でやってみると、力の入り方こそぎこちないものの、金属はコルクの真ん中あたりをぐりぐり回り、スボッと抜けた。以来、ワインオープナーは右手で使うようになり、コルクを粉砕させる頻度はぐっと減った。

 昨日。自分が本を読むのが苦手なのは、利き手のせいなのではないか、という説が、ふと浮かんだ。
 みなさんは、ページを右手でめくりますか。左手でめくりますか。
 ほとんどの縦書きの本は、閉じたとき右に背表紙がくる。本を開いたら、左から右に1ページずつ右手でめくり、右ページに右手を載せておくのが、多くの人の基本の手の動きではないだろうか。
 では、立って本を手にとり、全体の様子をぱらぱらっと見るとき、どちらの手で本を持ち、どちらの手でページをぱらぱらっとしますか。
 おそらく、多くの右利きの人は、利き手である右手で本を取る。そして、左手の親指を小口に置き、それをずらしながら、その本がどんな本かを、《前から》ぱらぱらっと確かめるのではないか。
 私はといえば、利き手である左手で本を取る。そして、右手の親指を小口に置き、それをずらしながら、その本がどんな本かを、《うしろから》ぱらぱらっと確かめることになる。そしてその動きは、本を置いたときにもやっていることが分かった。右手の親指以外で表紙をおさえ、小口に置いた親指をずらし《うしろから》内容を見ていく。
 しかもそれは、私が本と向き合う際のもっとも自然な動作になっているのだった。要は、私はいつも《うしろから》本を読もうとするため、なかなか本の内容を読む気にならないのではないか、そういう仮説である。
 だから、というか、《うしろから》でも読める本が好きだ。
《うしろから》本をめくることは、本を「読む」というより、見開きの景色を「見る」行為である。

 佐藤雅彦『新しい分かり方』(中央公論新社)の景色がいい。
 たとえば118―119ページ。「ジョン、メディアからの脱出を試みる」という写真2枚の見開きだ。右ページ、犬(たぶんジョンだろう)と犬小屋を映し出すテレビだけがある空間だ。それが、左ページには、同じところに犬小屋のみを映し出すテレビがあり、テレビの外の空間に、右ページではテレビに映っていた犬(ジョン)がいる。あたかも犬(ジョン)が、テレビを飛び出して出てきたように見える。
 ほかに、後頭部をビデオで録りリアルタイムで眼前に映し出しながら髪を切る人、声が出ない先生が「静かに」と書く黒板、中華かとんかつのどちらの店かには入ったサラリーマンたちなど、それぞれ「分かる」ことについての身近な発見や発想のすじみちを、絵や写真、文字で読者に考えさせる。写真に入る光の色が、図形の描き味が、活字の含む空気が、好きだ。途中でやめて、また見て、それがさっきと同じページでも、楽しい。後半に随筆があり、解説になっているので、それを読むのもいい。
 実はこの文章の前半、長らく利き手の話を書いたのは、最近自分が分かった(分かろうとした)ことであり、利き手について考えているときに『新しい分かり方』のことを思い出したからなのであった。
 思えば私は、分かることについて考えながら生きている。

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