それ、ほんとの話? 人生につける薬Ⅱ

第3回 ストーリーには、派手なできごとさえあればいいのか?

『人はなぜ物語を求めるのか』に続く、千野帽子さんの新連載!

受信者が好むと好まざるとにかかわらず、受信者にアピールする型のニュース


 前回見たように、社会における〈蓋然性の公準や道徳の公準〉から逸脱したできごとは、報告価値があると見なされやすいという傾向が見られます(マリー=ロール・ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』[原著1991]拙訳、水声社《叢書・記号学的実践》第24巻、259頁)。
 これでもう3度目の引用となりますが、〈尋常ならざるできごと、問題を孕んだできごと、あるいはけしからぬできごとこそ報告価値があるということになる〉というわけです。
 極度にレアな(起こる確率が低い)できごとや、背徳的な事件、違法な行為、残酷な事件、悲惨な事故や災害──たしかに、こういったできごとは、僕らの耳目を引きつけてしまいます。
 こういうニュースは人に(ニュースの受信者に)アピールします。「アピールする」と書くと、受信者がその手のニュースを「好む」と言っているような気がする読者もいることでしょう。
 でもそうではなく、ここで言っているのは「受信者が好むと好まざるとにかかわらず、受信者にアピールする型のニュース」の話です。
 「受信者が好まなくてもアピールするニュース」とは、前回書いたように、
〈報告価値を持つ話とは、人間の心の、より精神的な部分による意識的な判断よりも手前の──「下の」とは申しません──部分に働いて、続きを見届けてしまうように働きかける話、「好きでもないのに、目をそらすことがどうにも難しい話」〉
なのです。

個人的な意志あるいは意識とは無関係に、情報として取りこまれやすいできごと

 新聞・ネットニュースの社会面や週刊誌やワイドショウに取り上げられる事案・事件・事故のたぐいに、あまり興味を持たない、という人もいます。そういうニュース報道を積極的に読みに(見に)行こうと思わないタイプを自認する人、けっこういるのではないでしょうか。じつは僕もわりとそっちのほうです。「警察24時」のほうが好きです。
 しかし、僕を含むそういうタイプの人たちの頭にも、こういった〈尋常ならざるできごと、問題を孕んだできごと、あるいはけしからぬできごと〉のニュースは、するりとはいりこんでしまう。
 「そういうの、そんなに興味ないんだけど」という僕たちの自己イメージが間違っているのでしょうか?
 半分はno、半分はyesです。社会面や週刊誌を賑わす〈尋常ならざるできごと、問題を孕んだできごと、あるいはけしからぬできごと〉の報告(物語)は、社会面や週刊誌に興味の薄い人の個人的な意志あるいは意識とは無関係に、情報として取りこまれやすいのかもしれません。
 「社会面や週刊誌に興味の薄い」と自認する人の頭にも、新聞やTVやスマートフォンにおける「珍しい話」情報・「ひどい話」情報の見出しの文字は、他の文字より入りやすいようです。ただ、社会面や週刊誌に興味の薄い人は、「珍しい話」情報・「ひどい話」情報の見出しだけは認識しても、記事自体を読まない(ネットニュースだったらリンクをクリック/タップしない)だけなのでしょう。
 体内に飼っている野次馬の頭数が少ないか、頭数はそこそこいても、そっちじゃない違う方面の草だったら駆け寄って食べるタイプの野次馬なので、その手の記事を深追いするように当人の体を牽引するには不充分というだけのことだと思います。体内に野次馬を1頭も飼ってない人、というのは、なかなか特殊な人ではないかしら。

「ひどい話」情報が人を動かすのはどういうときか

 すでに第1回で引用したとおりマリー=ロール・ライアンは、「珍しいこと」「けしからぬこと」「ひどい話」などが〈ニュースの本質そのものであり、とくにその強烈な例がタブロイド紙に載るたぐいの話だ〉(前掲書259頁)と述べていました。
 ニュースやワイドショウに取り上げられがちな「ひどい話」と同様のものは、歴史記述のなかにも存在しています。
 たとえば、暴君として知られるローマ皇帝ネロは、西暦59年に実母ユリア・アグリッピナを配下の者に殺害させました。
 オービニャック師(l’Abbé d’Aubignacなので日本では「ドービニャック神父」とも書かれる)が書いたフランス古典演劇の理論書『演劇作法』(1657)の第2章冒頭近くを読むと、ネロ帝は〈母を絞め殺させ、その腹を裂いて、生まれるまでの九か月どこに宿されていたか、その箇所を見た〉のだそうです。ひどい話です(もっともこの逸話は、タキトゥスの『年代記 ティベリウス帝からネロ帝へ』[西暦117]にもスエトニウスの『ローマ皇帝伝』[西暦121?]にも見当たりません)。
 しかしこのような場面を劇として上演しても、観客は引くだけでおもしろがらないだろう、とオービニャック師は述べています。
〈真実そのものが演劇の題材とならないことは、広く認められている規則である。〔…〕模倣に基づく詩その他の芸術は、真実ではなく、人々の通常の意見と感情に従うとは、シネシウス〔373?~414? リビアのギリシア人司教〕の至言である。
 ネロが母を絞め殺させ、その腹を裂いて、生まれるまでの九か月どこに宿されていたか、その箇所を見たのは真実である。この蛮行は、犯人には楽しかったにせよ、見るものにはおぞましいのみならず、ありうるはずがないから信じ難い〉(戸張智雄訳、中央大学出版部、60頁)
 どうやら、実話として人の耳目を引く「ひどい話」も、もし劇として上演したら、同じようには人の気持ちを引かないだろう、ということらしいのです。オービニャック師によれば、こういうことです。
〈真実なことや可能なことが演劇から排除されるというわけではないが、この性質を備えない状況は除くか変えるかし、舞台で上演されるすべてに真実らしさを刻みつけなければならない〉(61頁)

フィクションには「ほんとうらしいこと」が必要、という説

 オービニャック師の主張には、ふたつのポイントがあります。それは──
(1)「ほんとうのこと」と「ほんとうらしいこと」は違う。
(2)フィクションは「ほんとうらしいこと」を必要とするが、ノンフィクション(「ほんとうのこと」の報告)はそれを必ずしも必要としない。
 これは多くの人の共感を得る意見だと思います。僕も体内に、この説にほだされそうな野次馬を飼っている自覚があります。でも、正しい説とは、多くの人の共感を得る意見のことでもなければ、僕の共感を得る意見のことでもないのです。僕はオービニャック師の意見に共感する気持ちも少なからずありながら、でもこれが絶対ではないと思ってもいる。
 僕はいま、少し先を急ぎすぎたようです。僕の個人的な意見はあとにしておいて、オービニャック師の主張に戻りましょう。
 上述の説をものするにあたって、オービニャック師がはっきり踏まえている古典があります。紀元前4世紀の科学者で哲学者でもあるアリストテレスの『詩学』第9章の冒頭部分です。
〈詩人(作者)の仕事は、すでに起こったことを語ることではなく、起こりうることを、すなわち、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で起こる可能性のあることを、語ることである〉
〈歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語る〉
(松本仁助+岡道男訳、『アリストテレース詩学 ホラーティウス詩論』所収、岩波文庫、43頁)
 ここで〈詩人〉と呼ばれているのは、叙情詩や俳句の作者ではなく、叙事詩および悲劇・喜劇の作者です。叙事詩にも演劇にもストーリーがありますし、叙事詩が脚韻のある詩形式で書かれているのはもちろんのこと、ギリシア悲劇・ギリシア喜劇は──というより、西洋では19世紀前半まで戯曲は一般に──脚韻のある詩形式で書かれていました。
 アリストテレスの『詩学』は、この連載および前回の連載(及びその書籍化である『人はなぜ物語を求めるのか』)が棹さしている物語論(ナラトロジー)の、現存するもっとも古い文献です。そして『詩学』は、とりわけ17世紀古典主義フランス演劇論に多大な影響を及ぼしました(17世紀の人がその約2000年前に書かれたアリストテレスの『詩学』をどれくらい正確に読んでいたか、ということには疑問を差し挟む向きもあるようですが)。

人はフィクションのストーリー展開に「必然性」を求めがち

 「ほんとうらしいこと」、つまりオービニャック師の言う〈真実らしさ〉(le vraisemblable, la vraisemblance)は、アリストテレスの言う〈ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で起こる可能性のあること〉に相当します。
 〈ありそうな仕方〉とは「起こる蓋然性(確率)が高い仕方」であり、〈必然的な〉とは「偶然(たまたま)ではない仕方」と考えればいいでしょう。
 「その成りゆきは高い頻度で起こることかどうか」とか、「それが必然的に起こるだろうと思わせる条件が揃っているかどうか」といったことで、当時の演劇の観客は作り話に納得したり、納得しなかったりしていた、ということです。
 フランス古典劇の観客と、現代の小説の読者やアニメの視聴者とでは、時代も文化も違うので、なにを「高頻度」と感じなにを「必然的」と感じるかは、当然違います。
 それでも、現代のコンテンツの受容者が、たとえその作り話が異世界ファンタジーや時代劇やボーイズラブのような様式性の強いものであっても、その「ストーリーに説得力を感じるツボ」は、基本的にはフランス古典劇の観客とだいたい似たような構造をしているのではないでしょうか。
                                    (続く)
 

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